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「松本城を世界遺産に」推進実行委員会講演

2006 6 26

「史跡松本城総堀土塁の保存について」

松本城管理事務所研究室 青木教司

1.はじめに
このたび、松本城総堀土塁の一部の残存が土井尻(大手2丁目54番1号)に確認され、各方面の努力により国の史跡指定に向けて見通しがつき、申請に向け動きだしています。
本日は総堀土井尻残存土塁の保存の意義と長年続けられてきた松本城城郭整備の中における位置づけをご理解いただければ幸いです。

2.「松本城」の範囲 
現在国宝に指定されているのは、大天守・渡櫓・乾小天守・辰巳附櫓・月見櫓の五棟です。
一般の人々は、この5棟を「松本城」と理解しておりますが、これは誤りです。

松本城鳥瞰図

「城」とは人によって住居・軍事・政治的目的をもって選ばれた一区画の土地と、そこに設けられた防御的構築物です。したがって松本城は上図の総堀の内側の範囲ということになります。
三の丸・二の丸・本丸の地域とその中に存在する防御施設すべてが「松本城」なのです。
したがって、平成11年9月に作られた「松本城およびその周辺整備計画(松本市教育委員会)」は総堀に囲まれた内部の整備を17項目を上げ、さらに18項目として『代表的な整備箇所」として6箇所を上げています。松本城の城郭整備・保護は、天守群とそれを含む郭(くるわ)及び関連施設を対象としています。
水野時代に編集された「信府統記(シンプトウキ)」は次のように記しています。

一 松本の城は四神相応(シジンソウオウ)の地なり、北高く南低く、南北へ長く、東南西に流れあり、天長地久の相、吉祥繁昌の定位、自然に契(カナ)へり、大手南向きて水性の域なり、凡(オヨソ)国府の城は城辺の堅固にかかはらず、此の如き地形を第一とす。・・

このように「城」を天守のみをさすのでなく天守を含む面としてとられていることが分かります。

 明治九年 深志城外曲輪全図3 総堀土井尻残存土塁の保存の重要性

(1)残された総堀土塁3つのうちの1つ総堀の内側に総堀土塁が廻っており、その延長は986間とあります。
およそ1.8KMの土塁で囲まれその土塁の上に土塀が廻っていました。

土塀は地図に見られるように屏風のように折れ曲がった塀でした。これこそ、鉄砲戦に備え死角をなくすための工夫でした。
折れ塀

土塁概念図 維新以後、次ページの図のように総堀の大部分、外堀の一部が次々に埋めたてられ住宅化されていきました。
この埋め立ての際に土塁は崩され埋め土土塁として使われました。

こうした推移の中で総堀土塁は3箇所が残存するのみとなりました。総堀土井尻土塁はそのうちの一つです。

現在の松本市と松本城

総塀の土塁が残されているのは3箇所

(2)土井尻土塁の現状

4月7日より

4月7日 土井尻残存土塁が破壊されるとの情報を得て視察。所有者と連絡を取る。

(4月7日)
(4月14日)
(4月7日)
(4月14日)

4月14日所有者との話し合いがもたれ、この遺構が総堀土塁であり、残存する3つの土塁の内の一つであり貴重な遺構であることを説明する。所有者は土塁である確認がほしいということで土塁南側のコンクリート壁を取り除いたときの断面でそれを判断することを承知された。
4月20日教育委員会の緊急調査が行なわれ、所有者立会いのもとで文化課・松本城管理事務所・文化財審議委員が参加し土塁遺構であることを確認した。
この日、現地調査調査を踏まえて、松本市は土井尻残存土塁の史跡保存を極めて早い段階で決断した。5月16日には文化庁本中調査官が視察に訪れた。これはきわめて異例の対応で、国史跡指定の方向を土井尻土塁を含めて3箇所を指示した。土井尻土塁については土塁南側にトレンチを入れ東側裾部の確認、西側総堀との境界の確認並びに武家屋敷の生活面の確認等を指示された。          
以後、上記の発掘調査は6月上旬で終了し所期の目的を達成している。

(4月20日)
(5月16日)

(3)土井尻土塁の概要
1)土塁の規模
「享保十三年秋改松本城下絵図」によれば土井尻残存土塁は120石玉川助之丞屋敷西側にあり幅はおよそ19mである。高さは地図には示されていないが、残存土塁は2.6mある。石垣によって保護された部分は6mである。
                              
2) 土井尻土塁の歴史的変遷

 明治維新には林吉大屋敷となっており土塁は存在している。大きな変化が起るのは大正8〜9年である。松本市は西総堀(西堀)を埋め立てて市営住宅と職業紹介所をつくることになり、残っていた総堀土塁は埋め立てに使われたものと推定される。
このとき、該当土塁は道路が開かれ南側が崩されたと思われる。
その後、住宅に囲まれた庭の一部として残され現在に至ったと考えられる。

大正5年松本市全図
昭和6年松本市街図
大正10年開設の職業紹介所
平成4年土井尻残存土塁

4 保存の必要性

(1)国・県等より指導を受けて、平成11年9月に策定された「松本城およびその周辺整備計画」に保存・整備が位置付けられている。

1整備箇所

整備箇所 整備箇所
整備箇所 整備箇所
整備箇所
18 周辺景観の整備と町並みの保存
●建造物の高さの規制 ●説明板の設置 ●街路・小路の整備
●武家屋敷の復元 ●歴史的建造物の保存 ●歴史的水路・井戸の整備
●史跡指定地の拡大 ●十王堂の整備 ●残存土塁の整備

C整備の方向

1 信建造物の規制は、「松本市都市景観形成基本計画」を重視する。

2 代表的な整備箇所

 @ 特色ある町割りや道路などに説明板を設置する(大手門枡形などの諸門跡、親町、枝町など)
  A 歴史的建造物の保存(町屋・武家屋敷などの代表的な建造物)
  B 4つの十王堂の整備
  C 街路の整備と説明板の設置(善光寺道・御徒士町など、特に鍵の手、喰い違いなど)
  D 歴史的水路、井戸の整備(蛇川、ハンの木川、紙すき川、辻井戸など)
  E 土塁整備(市役所東庁舎南の土塁、土井尻の櫓跡の土塁など

C 関係資料

平成11年9月「松本城およびその周辺整備計画」が策定された。これは、明治以来続けられてきた松本城天守を残し・修理し・解体復元するという天守保護のあり方から一歩踏み出して、面としての松本城を幕末維新の姿に整備保存しようとする画期的な整備計画であった。100年200年後を見据え可能な限り復元整備し、史跡指定を促進しようとするものである。

(2)本土塁は「信府統記」第一 によれば、天正19年(1590)松本に入封した石川数正の子康長が父の意志をついで松本城を整備し天守閣を建てた。「文禄二癸巳年・・父康昌(数正)ノ企テル城普請ヲ継、天守ヲ建、惣堀ヲサラへ、幅ヲ広クシ、岸ヲ高クシテ石垣ヲ築キ、渡リ矢倉ヲ造ル、・・・三ノ曲輪ノ大城戸五ケ所共に楼門ヲ造ル・・」とあり、惣堀を浚って岸を高くして惣掘土塁を造り、五ヶ所に大木戸を造ったとあり。石川氏によって総堀及び総堀土塁が整備されたと推定され城郭構成上極めて資料的価値が高いものと考える。

(3) 平成14年度〜17年度行なわれた「二の丸東北隅櫓及び土塀試掘調査」において二の丸御殿跡東及び北側の土塀復元を目指して調査がなされ、その結果土塁の基礎部分の確認及び土塁下部の土層の確認は行えたが、「享保十三年秋改松本城下絵図」及び「幕末戸田家二の丸御殿図」等に示されたそ土塁幅、土塀の位置等確認は出来なかった。また二の丸御殿跡は明治4年より松本裁判所として使用され、明治9年に焼失し、同11年庁舎を新築。明治41年には建て替えが行なわれた。このように、昭和53年に解体移転されるまで、二の丸御殿跡は裁判所敷地として使用されていたため地表面の改変が著しく、二の丸御殿跡外堀土塁の高さについてはし調査結果からは推定が極めて難しい状況である。
総堀土塁(土井尻)の保存は、土塁の幅、高さ等、二の丸御殿跡外堀土塁復元のための参考資料として大きな価値があると考える。

(4)「信府統記」の総堀土塁上にあった櫓数は14ケ所と堀田時代、水野時代と変わりなく、明治9年の「深志城外曲輪全図」においても14ケ所の櫓跡が確認でき、その位置も変わらないものと推定される。「享保十三年秋改松本城下絵図」と平成4年の「松本市都市計画図」を重ね合わせると西総堀上の櫓(平櫓)で西不明門から南へ3番目の櫓の位置は残存土塁の付近の可能性が高いと推察されこれを保存する意義は大きいと考える。

地図 地図
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