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1 松本城天守の歴史的特質

(1)武田信玄によって整えられた戦国時代の名残の縄張りを残す松本城

(2)関東の家康を監視する豊臣方の城として築造された松本城

(3)軟弱地盤に匠たちが工夫を凝らして造った松本城天守

(4)望楼型天守から層塔型天守へ移行する過渡期に位置する松本城天守

(1)武田信玄によって整えられた戦国時代の名残の縄張りを残す松本城

 1550年(天文19)甲斐の武田信玄は信濃の府中松本に侵攻し守護小笠原氏を敗走させ、これを手中に した。以後 33 年間深志城を整備し信濃経営の兵站基地とした。近世松本城の本丸・二の丸・三の丸の 縄張りは、ほぼこの時、出来上がっている。 1582年(天正10)武田氏が滅び、旧地を回復したのは小 笠原氏で、深志城を松本城と改めた。

@坂西氏 (ばんざいし)とその居館

 小笠原氏の城将坂西氏の館城は、平地に築かれた方1丁(約 120m)四方の館で周囲に堀をうがってその土を掻き揚げて土塁を造り防塁としていた。この主郭部分は現松本城本丸付近と今の所は考えられて いる。また、東正面虎口の外には柵木を巡らした二の郭が存在したとも考えられている。小笠原時代坂西 ( ばんざい ) 氏館城 (1500年頃)

 

 館城は日常生活の場に防備を施した簡易の城であり、坂西氏は郭内に自らの居館と親族の 殿舎を置き、物見櫓を配置し土塁上には柵木が設置されていたと推定されている。
  配下の武士は郭外に住み平時は農業を営んでいた。二の郭の門前では市が開かれていたと考えられている。

小笠原時代坂西 ( ばんざい ) 氏館城 (1500年頃)

A武田氏と深志城の縄張り

 天文 19年(1550)武田信玄は小笠原氏を追い信濃府中を 手中にする。武田氏は小笠原氏の本拠の山城の林城を破却し湿地帯の中の深志城に着目し、林城自落4日後の天文 19年7月19日に修築の鍬立(くわだて)を行い、23日には 総普請に取りかかっている。近世の松本城の縄張りには 武田流築城術の特徴である馬出が次ぺージ図のように4ヶ所、さらに、南門も馬出であったと推定されることから、武田氏時代には次頁の図のように坂西氏館は大きく改変されたと考え られる。

 城将は馬場信房・信春父子で、郭を広げ・堀は3重に広げられ土塁が本丸・二の丸・三の丸の周囲に構築された。

 この広大な城地は征服地にあって郭内に兵力を蓄え村上氏・上杉氏と対する信濃経営上、戦略物資の集積を図る兵站基地として必要な広さであったと考えられ ている。又、現在の研究では女鳥羽川は武田氏時代にその土木技術もって今のように曲げられたと推定されている。この時代は本丸も二の丸も三の丸もすべて土塁で囲まれ、石垣はなかった。

 したがって、松本城の土塁は武田氏時代にその原型が築かれたと考えられる。

武田氏時代の深志城想像図

近世松本城への5つの出入口は武田氏時代の馬出であったと推定されている。

馬出虎口(丸馬出)
馬出の構造

馬出の構造
1  南大手門
2 東門馬出
3 北門馬出
4 北不明門(北あかずの門)馬出
5 西不明門(西あかずの門)馬出

B戦国時代の城下町

 信濃の守護小笠原氏は当初井川の館に本拠を置いていた。やがて戦国時代になると山辺林に本拠を移した。深志城は小笠原氏時代本城である林城の支城であった。

 戦国大名小笠原氏の城下について考える。

 下図が示すように小笠原氏林城の城下町は山城の下に侍の屋敷が並んでいる。武具等戦いにかかわるお抱えの職人の住まいがあったと推定される。また、家臣団の全てが城下に住んでいたわけではない。兵農分離が進んでいない戦国期ではすべての家臣を農村から引き離し城下に集住させることは不可能であった。

戦国時代の城下町

林城の城下 林城の城下

したがって物資の集散地であり「市」が立っていたのは古い伝統をもった松本の 市町 ( いちまち ) であった。

 武田信玄が林城を破却し支城であった平城である深志城を3重の堀に囲まれた城地に改修したのは、偏に交通の便のよさと物資の集散地としての地の利であったと推定される。既にあった市町の地域に戦国大名武田氏が城を整備したのである。天文19年には、武田氏は村上氏と対立しており東北信への兵站基地としての役割を深志城は負うのである。天文20年には中信の平瀬城、天文21年には安曇郡小岩岳城を攻め、天文22年には村上氏を4月9日に埴科葛尾城から追い、4月22日には第1回川中島の戦いがおこなわれている。

 武田氏は天正10年に滅び33年間の支配は終わりとなった。残念ながら戦国大名武田氏の城下町松本の様子は不明である。

C 近世松本城下町の形成

 織田信長による安土城下町は城下に家臣団を集住させ、大名に直属していた商工業者と市場の商職人の区別をなくし城下へ集合させ近世城下町が出現した。小笠原氏から水野氏までの松本の城下町の成立過程を以下に示す。

1 小笠原貞慶―城下町の基礎をつくる

2 石川氏―天守の築造に力を注ぐ
1 小笠原貞慶―城下町の基礎をつくる地蔵清水と泥町(柳町)にあった町人町を残らず本町に移し、東町、中町をつくった。浄林寺を山辺の林より伊勢町に移し、生安寺を泥町より本町に移し、瑞松寺を飯田町から宮村町へ移した。 2 石川氏―天守の築造に力を注ぐ片端、袋町、葵馬場に武家屋敷をつくった。また、町人町の中の宮村町にも武家屋敷をつくった。正行寺や極楽寺を栗林村から移した。
松本城下町は水野時代で一応の完成をみる。  
   
3 小笠原秀政・戸田氏・松平氏―整備が着々と進む。
4 水野氏―城下町がほぼ完成
3 小笠原秀政・戸田氏・松平氏―整備が着々と進む。 小笠原秀政は飯田町、小池町、宮村町などの枝町を割った。戸田氏は御徒士町、堂町に武家屋敷をつくった。松平氏は六九馬屋をつくり、新町、田町、片端の武家屋敷を整備した。 4 水野氏―城下町がほぼ完成荻町、上土、北馬場などに武家屋敷をつくった。町人町が整えられ周辺に寺社が配置されて城下町はほぼ完成した。

 城下町は防備がほどこされた町である。経済効率を考えれば街路は碁盤の目状が理想である。 「 遠見遮断 」 とか 「 前方遮断 」 という一本の道を屈曲させて設置したり、丁 字路、喰い違い、鍵の手等の防衛上の工夫がされている。
  また、寺の配置も考慮されている。寺は城下町のはずれに寺町として配置されている。松本の場合は城下の東側にラインを作っている。寺は町屋より堅固に造られており、敵が侵入してきたとき城兵が城を出て城下末端の寺院でまず敵を迎え討つことができる。つまり、城の出丸的役割を担っている。

近世松本城下町の形成

 松本城は以上見てきたように戦国大名武田氏の城下町から小笠原から水野氏までかかって近世城下町として完成をみた。

D藤堂高虎の城下町

 近世城下町はさらに発展をとげる。四国今治の城下町は慶長6年(1601)から町割が開始された。次頁、図 aに見られるように辰の口に続く南北の町筋を本町とし、海岸側から風早町・本町・米屋町・室屋町と四筋として(中浜・片原町は後になって成立)、城下町の防備を意識して町屋の北側に寺町を東西に配している。道路は直線的に通されている。このプランを遂行したのは藤堂高虎で、高虎は泰平の世の到来を予測し、都市の経済発展を強く意識して交通の便を考えて直路を採用している。高虎は城下町の街路の直線化を伊予の板島・大津でもおこなっている。

 図bは藤堂高虎が建設した上野城下町である。ここには防衛のための丁字路はみられない。商業の振興を重視し町筋を直線化して何本も並立させ、しかも道幅を拡大している。しかし、城下町防御の配慮は怠りない。本町筋では遠見が遮断されている。三筋町の南の馬場がありその前面は忍者町・鉄砲足軽屋敷・さらに西には城代藤堂采女の下屋敷が置かれい城下町東南の寺町も防御の役割をになっている。高虎は武家屋敷と町屋が分離して一体感にかけていた筒井氏時代の城下町を否定して両者と寺社を有機的に結合させた新たな城下町を建設した。

図 a 今治城下町 今治城
図 a 今治城下町 今治城

 

上野城下町図

図b  上野の城下町
1古天守    2城代屋敷
3本丸    4天守
5作事室   6御殿
7馬場    8大名小路
9池田伊予屋敷
10北谷馬場  11東大手
12西大手   13北谷口(搦手)

本町筋
A片原町  B東町  C中町 D西町E向島町

二之町筋
F鍛冶町 G魚町 H小玉町 I福居町

三之町筋
J相生町(風呂屋町) K紺屋町 L三之西町 M徳居町(今治の町人移住)

(この頁三図は「江戸時代の設計者」  藤田達生著講談社現代新書より)

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(2)中仙道・甲州街道を固め関東の家康を監視する豊臣方の城として築造された松本城

 @豊臣政権下、徳川を監視する戦略的な城郭としての松本城

 豊臣秀吉は 1590年(天正18)小田原の戦いに勝利し天下を掌握すると徳川家康を関東に移した。そのため、小笠原氏は徳川氏に従い松本を去った。秀吉は石川数正を松本に入封させ江戸の家康を監視する五重六階の松本城天守を1593年(文禄2)から1594年(文禄3)にかけて築造させた。この時建てられたのは天守・渡櫓・乾小天守の3棟である。石川数正とその子康長はこのほかに総堀を整え、土塁を築き土塀を建て、諸櫓や門楼を造り、城内の館の修造および武家屋敷の建設を行い近世城郭として松本城を整備した。また、鉄砲戦を想定し堀幅を広げ、天守の壁を厚くし、銃眼を穿ち、土塁上の土塀にも2000余の狭間を作り武備を固めた。

 秀吉はライバル家康を監視するために沼田・上田・小諸・松本・高島・甲府に膝下の武将を配置した。松本城はその城の一つであった。 これらの城からは金箔瓦が出土しており秀吉の権威を背景に松本城天守は築城されたと推定される。

東海道筋は幾重にも秀吉恩顧の大名を配置し家康に備え、中仙道・甲州街道からの大坂進攻に備えて上図のような松本城出土の金箔瓦包囲網が敷かれた。

東海道筋は幾重にも秀吉恩顧の大名を配置し家康に備え、中仙道・甲州街道からの大坂進攻に備えて上図のような松本城出土の金箔瓦包囲網が敷かれた。

1593~94  3棟が造られた
松本城出土の金箔瓦

松本城出土の金箔瓦

 当時の火縄銃は有効射程距離は 50〜60mで、50m離れて3pの板を撃ぬく威力をもっていた。内堀は迎撃できるぎりぎりの凡そ60mの幅に造られた。

 天守のある本丸は総堀・外堀・内堀の3重の堀にかこまれていた。堀の内側には土塁が築かれその上には銃眼付きの土塀が廻されていた。本丸は石塁で防御されていた。

土塀は死角をなくすためにジグザグの折塀(おれべい)となっていた。

天守には 115の銃眼が穿たれ、壁は1・2階は28cm、それ以上の階では20cm程と銃弾が貫通しないようになっていた。

松本城の鉄砲の数は藩所有のもので文化 16年に927梃あった。この様に松本城は鉄砲戦を考慮に入れた備えがなされた戦略的城郭であった。

松本城天守は黒漆で塗られた下見板のために黒い色をしている。A戦略的城郭から領国支配の拠点としての城郭へ

 松本城天守は黒漆で塗られた下見板のために黒い色をしている。壁の1/3は白漆喰で2/3が下見板である。織田・豊臣の時代を略して織豊期( しょくほうき )と呼ぶがこの織豊期、 1600年関ヶ原の戦以前に造られた天守には下見板が使われている。

 当時の建築において白漆喰で壁一面を塗った場合、雨がかかる下2/3は崩れやすかったため、下見板を張り雨をはじく黒漆を塗布した。 1583年に建造が始まり2年後に完成した秀吉の大坂城も下見板張られていた。その上、秀吉は白漆喰の壁部分も黒漆を塗り真っ黒な大坂城を出現させた。これは、天下の富と力を手に入れた秀吉が城飾りとしての金の金具を目立つように、貴族の間で最高の色とされていた「黒」を選んだからといわれている。

 関ヶ原の戦いを制した家康は、秀頼及び西国の豊臣恩顧の大名を封じ込めるため下図のように大坂包囲網を敷いた。

大坂包囲網関係図

秀吉の大坂城

●は大坂を除き徳川方の城

(左図は前掲藤田著「江戸時代の設計者」 99p より)

 国替えによる大名配置と新たな築城によって家康が名古屋よりも西の東海道、大和街道、山陽道、山陰道沿いの諸国と瀬戸内海を掌握し、秀頼と近畿・中国・四国・九州の豊臣方大名の広域監視体制を作り上げていった。

姫路城

彦根城

姫路城 彦根城
   

家康の江戸城〔慶長期江戸城〕

家康の江戸城〔慶長期江戸城〕

  家康の江戸城〔慶長期江戸城〕

 この徳川系の天守は下見板を使わず白漆喰の総塗籠の「白亜の天守」であった。 下見板は耐水性の面で白漆喰より優れていた。白漆喰は10年から20年ぐらいしかもたない。耐水性の劣る総塗籠の天守が造られた理由はその 「外観のよさ」 からであると考えられている。すなわち、城郭が 戦略上の拠点 から 領国支配の中核 としての性格を強めることになったからである。領国支配の象徴として白亜の天守が西国を中心に造られ全国に波及した。

 したがって松本城が黒いのは、松本城が戦国末期の戦略的城郭の性格を築城当時はもっており、下見板を使用して戦略施設としての性格をあらわにしていたためである。

 松本城は1593年から94年にかけて石川数正・康長父子により築造された秀吉側の城である。関東の徳川家康を監視する城として築かれた。戦国末期、鉄砲戦に備えた武備が城全体に施されてい る。

B 松平直政によって増築された瀟洒な月見櫓

 数正・康長父子により天守が築造されてから 40年後、1633年(寛永10)、三代将軍家光の 従兄弟松 平直政が入封し辰巳附櫓と月見櫓を付設した。この二棟には際立った武備は見当たらない。総檜造りで 三方取り外し可能な 舞良戸 ( まいらど ) や朱の 刎高欄 ( はねこうらん ) を巡らし、天井は船底天井に仕上げられている。また、壁は白漆喰の大壁造りで 瀟洒 ( しょうしゃ ) なつくりになっており、戦略的天守と好対照をなす泰平の世の櫓である。

 このように松本城天守は戦う機能を備えた天守と泰平の世の優雅な櫓が複合した現存する我国最古の5 重6階の城郭建築である。

松平直政(月照寺蔵)         

松平直政(月照 寺蔵)

←寛永 10年入封

 

 

大壁造りの月見櫓→

大壁造りの月見櫓

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(3)軟弱地盤に匠たちが工夫をこらして造った松本城天守

 @土台支持柱

 松本城天守から城山に抜ける抜け穴があったという伝説がある。そして、天守の抜け穴の入り口は天守一階の北東隅といわれてきた。昭和25年よりおこなわれた解体修理の際それが確かめられた。天守の解体が終了し天守台が現れた昭和27年3月3日発掘がおこなわれた。写真のような直径50 cm 程の穴が発見された。やがてその数は16に及び穴の上部に柱状の遺物をともなうものが発見され、抜け穴はなく、土台支持柱が16本埋められていたことが確認されたのである。

言い伝えられてきた穴は支持柱の劣化したあと

言い伝えられてきた穴は支持柱の劣化したあとであったことが明らかになった。現在、この時出土した栂の支持柱の一部が天守1階に展示されている。

 今は鉄筋コンクリートの支持柱が埋められている。

今は鉄筋コンクリートの支持柱が埋められている。

栂の土台支持柱の展示 昭和27年鉄筋コンクリートの支持柱に変わる

栂の土台支持柱の展示

昭和27年鉄筋コンクリートの支持柱に変わる  →

A筏地形・土留の杭列

 松本城は先述のように複合扇状地の先端(扇端)にあって堀の水は得やすいが、軟弱地盤であるため天守台を築くにあたり 「筏地形(いかだじぎょう)」 という工法がとられている。

筏地形(いかだじぎょう)
筏地形(いかだじぎょう)
筏地形(いかだじぎょう)
筏地形(いかだじぎょう)
筏地形(いかだじぎょう)

松本城の石垣は 「 野 ( の ) 面積 ( づらづみ ) といわれる。

 自然の石をほとんど加工せず積み上げた石垣で石材間の隙間を埋めるため、石を詰めてある。間詰石(まずめいし)という(松本城は飼い石と呼んできた)。石積みの背後のこぶし大の石を込め石(栗石)という。これは排水のために入れる石である。昭和の大修理の際、発見された筏地形及び胴木と根石の状況が下の写真である。

松の丸太と胴木と根石の写真

土止めの杭列
土止めの杭列
土止めの杭列
土止めの杭列

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(4)天守1階の 4 面の壁はみな内側に湾曲している。 望楼型天守から層塔型天守へ移行する過渡期に位置する松本城天守

 天守1階の 4 面の壁はみな内側に湾曲している。西側では中央で13cm内側に入っている。

 天守2階の壁も同様に 4 面内側に湾曲している。これは 1 階の柱が一番外側( 側柱 ( がわばしら ) )と壁側から 2 番目の柱( 入側柱 ( いりかわばしら ) )が 1 ・ 2 階通し柱になっているからである。

 このことは天守台上面が昔の「木製の糸巻状」になっているからである。

 これは、石垣が天守台天端の中央部が内側に湾曲して積まれているからである。すなわち、天守台上面は正矩形になっていないということである。松本城の造られた時代には天守台上面を正矩形にする石積技術が確立していなかった。

 土台は天守台石垣の天端にあわせて写真のように部材を短くして配置されている。したがって石垣の湾曲が壁に反映して天主1階・ 2 階の壁が湾曲するのである。

 

土台を短くして土台が石垣の歪みにあうように造られている。(松本城天守)

 天守台の湾曲が 1610 年(慶長15)以降は石積みの技術革新によってなくなり、天守台上面が正確な矩形に普請できるようになった。松本城天守のように天守台が不等辺四角形の場合、一重目が天守台の天端を反映して矩形にならず規格化された部材で全体を組み上げることができなかった。

 この石垣普請にかかわる技術的向上は層塔型天守建築を普及させることになった。(それまでの天守は望楼型天守と呼ばれている。)正矩形の天守台を造りその上に規格化された部材を用いて組み立てた。工期が短縮され、費用も安くすみ構造上の無駄がなくなったのである。

 犬山城の天守台は北辺より南辺が1間長く台形となっている。姫路城天守台は南東隅が鈍角のため北辺が1/3間長くなっている。この上に望楼型の天守が築かれている。

○望楼型天守

 望楼型天守は天守が誕生したときからある古い形式である。1階あるいは2階建ての入母屋造りの建物を設けその屋根の上に2階から3階だての望楼をのせたものである。

岡山城天守  
岡山城天守 岡山城天守
(「天守のすべて@  学研」より)  

 

犬山城天守
丸岡城天守
彦根城天守
犬山城天守 丸岡城天守 彦根城天守

 

姫路城天守 この他の望楼型天守:広島城(慶長5)・松江城(慶長16)高知城(延享18・ 享保12焼失再建)
姫路城天守 入母屋破風と千鳥破風の違

○層塔型天守

層塔型は五重塔や三重塔を太くしたような形式である。各階の屋根は四方に均等に葺き下ろされる。構造的に見ると上階を下階から規則的に 逓減 ( ていげん ) (小さくしていくこと)させて順番に積み上げる形式である。用材の規格が容易になり城郭建築のように工期の短縮を至上とする場合は有効であった。

層塔型天守
層塔型天守
層塔型天守

丹波亀山城   最上階以外の破風のない天守。
5重5階  左南面  右西面(初期層塔型天守)(図は「天守のすべて@学研」より)

 

弘前城(文化7) 丸亀城(万治3) 破風で飾られた層塔型天守・福山城天守
弘前城(文化7) 丸亀城(万治3) 破風で飾られた層塔型天守・福山城天守

 

津山城天守模型

初期の層塔型天守は破風のない質素なものであったがやがて望楼型天守のように破風で飾られた層塔型天守も出現した。

その他の層塔型天守 :小倉城(慶長 15)・名古屋城(慶長17)・宇和島城(寛文5)・備中松山城(天和3)・伊予松山城(嘉永3)

松本城を建築史家は層塔型天守に位地づけている。

 しかし、天守台は不等辺四角形できちんとした長方形ではない。1・2階の城壁は石垣の歪みを繁栄して内側に湾曲している。また、3階は下から2枚目の屋根裏階をもっており層塔型天守とはいいがたい面がある。また、1階ごとに決まった逓減率になっていない。下から1枚目の屋根と4枚目の屋根は出桁によって屋根の垂木を支えているが、2枚目3枚目の屋根はその下の階の天井部分がこれを支えている。また、時代的に見て藤堂高虎によりはじめて築かれたのは層塔型天守丹波亀山城(慶長 15 ・今治城として慶長13年に建てられた天守を移築)であるが、松本城はそれに先立つ文禄3〜4年(1593〜94)に建てられており層塔型天守とはいいがたい面がある。現在の建築史家は松本城天守を慶長20年(1615)小笠原秀政により建てられたという旧来の説を主張している。現在、松本城築城懇談会により築城を文禄3〜4年とする説が有力である。こうした今までの誤った築城年代から松本城を層塔型としていると考えられる。

天守のしくみ
天守のしくみ
天守のしくみ
天守のしくみ
天守のしくみ

松本城土台支柱柱
松本城土台支柱柱
松本城土台支柱柱
松本城土台支柱柱

このように見てくると、歪んだ天守台に造られた天守ではあるが天守台の上に正しい長方形の 身舎 ( もや ) を造り上階を組み上げている。これは不定形な四辺形の上に入母屋の建築物を造り3階以上で方形に調整した望楼型天守から発想された技術がここに生かされているようにも思える。したがって、松本城は純粋な層塔型天守ではなく層塔型天守が生まれ出る過渡期の技術によって造られた天守ということができよう。

松本城天守の骨組みを見ると太い柱と梁を組みあげている。柱も側柱は29cm×29cm、入側柱は24cm×24cm、その階だけの管柱は21cm×21cmと位置によって太さが違っている。南北方向の桁材は21cm×27cm、東西方向の梁材は21cm×29cm程である。したがって今日の住宅と比べると天守の柱の強度は10倍の重量に耐え、80倍の折り曲げる力に対抗できるとされている。

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