継続審議案件の検討状況

1.指摘された松本城の個別検討課題について

「松本城」は継続審議とされ個別的課題として次の 2 点が指摘されました。

(1)主  題
「主題及び顕著な普遍的価値について、検討が必要。その際には、近世の大名文化を背景に形成された城郭又は城下町の観点から本資産の位置付けを明確化するとともに、城郭のみの資産構成が適切であるのか、あるいは城郭については既登録の「姫路城」、暫定一覧表に既記載の「彦根城」との統合が可能であるのか等について、検討が必要。ただし、城下町の観点から捉えた場合には、他の提案の中に主題の類似するものがある」

(2)資産構成
「城郭の堀及び土塁等の骨格を表す諸要素の保存状況、城郭と一体を成す城下町の諸要素に対する評価の視点が必要」

個別課題の解釈

※ 資産構成を城郭のみとするか、城下町を含めた資産とするかという資産の位置づけの検討、さらに、既登録の「姫路城」及び既暫定一覧表記載の「彦根城」との統合が可能かの検討の必要性を指摘されたものと解釈しました。

※ 「城下町の観点から捉えた場合には、他の提案の中に主題の類似するものがある」については、他の提案事例は「近世高岡の文化遺産群」、「城下町金沢の文化遺産群と文化的景観」及び「萩城・城下町及び明治維新関連遺跡群」の提案を指しているものと考えます。

2.松本城の資産構成について

主題及び顕著な普遍的価値については、近世城下町の道路に丁字路・喰い違いや鍵の手が残され、町割りの跡も見ることができます。また、近代化された市街地の地下に商家や武家屋敷の遺跡が発見されています。
松本の城下町は明治期 3 度の大火に見舞われました。その後、都市景観は街の近代化により大きく改変されていますが、松本市全体を屋根のない博物館として自然、文化、生活に関わるすべてのものを保護し守っていこうという市独自の「松本まるごと博物館構想」にもとづき残された武家屋敷や明治の火災を免れた近世の書物や文書、被災後造られた建築物等を大切に守り後世に伝えていこうとする取り組みが始められています。以上、今日の城下町の現状に鑑み、主題及び顕著な普遍的価値については、本丸及び二の丸の天守を中心とした史跡並びに三の丸の城郭遺跡に焦点を絞り、その普遍的価値を重点的に検討するのが合理的と考えました。

3.主題について
(1)主題を「姫路城を中心とした日本の近世城郭群」に設定

日本の近世城郭史は、安土城築城以来江戸時代までを図Ⅰのように 4 期に分けるのが一般的であり、松本城天守は、日本の近世城郭発達史の中に位置づけられたとき、はじめて歴史的普遍性が明確になるとの認識に達しました。

したがって、松本城と建築年代区分の違う姫路城や彦根城等と統合することで日本の近世城郭群として世界の城郭の中で普遍性がより明確になると考えました。

図Ⅰ <日本の近世城郭発達史>

① 天正・文禄期
1573 ~ 1596
【 安土城・豊臣大坂城 】
松本城 3棟 (天守・渡櫓・乾小天守)

② 慶長前期 ( 関ヶ原戦前 )
1597 ~ 1600
【 岡山城・広島城 】

③ 慶長後期 ( 関ヶ原戦後 )
1600 ~ 1615
彦根城・姫路城 ・犬山城・高知城・松江城・丸岡城・初代宇和島城・初代伊予松山城・初代弘前城

④ 元和以降 ( 江戸期 )
1615 ~ 1868
丸亀城・備中松山城・ 松本城 2棟 (辰巳附櫓・月見櫓)

【解説 】
※ 表記城郭は国宝・国重文天守をもつ現存 12 城。【 】内の安土城は現存しない。また、豊臣大坂城・岡山城・広島城は外観復元

近世城郭は、中世の山城から平城・平山城へとその立地を変えていきました。防塁は土塁から石垣に変わり、郭内には瓦屋根の恒久的な建築物である 白 ( しろ ) 漆喰 ( しっくい ) 塗 ( ぬり ) 籠 ( ごめ ) の天守や御殿が建築されるようになりました。

又、天守の建築様式においては、石垣積み上げ技術の進歩が 正矩形 ( せいくけい ) の天守台建設を可能にし、 1610 年以降、従来の入母屋に望楼を乗せた形の「望楼型天守」から屋根の数「重」と階が一致する「層塔型天守」といわれる天守の築造を可能にしました。

1600 年、関ヶ原の戦による政治的変革が徳川氏による「優雅な外観をもった白亜の天守」を生み出しました。このことは戦国末期、城郭が堅固な戦略的城郭から領国支配の拠点としての意味をもつようになったことを示しています。

既登録の世界遺産「姫 路 姫」、既暫定一覧掲載の「彦根城」は、日本の近世城郭発達史上最盛期の「慶長後期」に属する城郭です。松本城天守は、現存する城郭としては「天正・文禄期」に属する戦略的性格の強い城郭であるとともに、「 元和 ( げんな ) 以降」の江戸期の櫓が複合している城郭です。

(2)国宝三城との歴史的特徴の比較

昨年提出した「世界遺産暫定一覧表記載資産候補提案書」に掲げた松本城天守を他の国宝

三城と比較した歴史的特徴の 4 項目は次のとおりでした。

ア 戦国末期鉄砲戦に備え、戦う城として現存する我が国唯一の漆黒の天守である。

イ 松本城は国宝四城の内唯一の平城である。

ウ 戦国末期の戦うための天守と泰平の世になって付設された櫓が複合連結されている城郭は国宝四城のうち松本城天守だけである。

エ 松本城総堀の両側より防御用の杭列が発見され極めて貴重な歴史遺構である。しかし、これらは日本城郭発達史の上から、松本城が戦国末期、「天正・文禄期」の戦略的城郭としての特徴であって、我が国近世城郭史からみて普遍的要件が十分に満たされているとはいいがたいという認識に至りました。

(3)日本の近世城郭群の歴史的普遍性

「世界文化遺産特別委員会の調査・審議結果」では、「その資産が日本の歴史・文化の一端を示す連続性」を重視していくとしています。

したがって、日本の近世城郭が発達した時間的連続性を重視し、「姫路城を中心とした日本の近世城郭群」という主題のもとに資産の再構成を行うことによって世界的に見て普遍的な価値を明確にすることができるのではないかとの結論に達しました。

世界文化遺産特別委員会の調査・審議結果は「都道府県域を越えてリンクする一連の文化遺産群」という構想が今後増加していくのではないかと見ており、「一つの主題の元に複数の資産を組み立てる手法」をとる場合、地域間の距離は問題にならないことを示唆しています。

既登録の「姫路城」に既暫定一覧表記載の「彦根城」と「松本城」等を加え、「姫路城を中心とした日本の近世城郭群」という主題の元に資産を再構成することによって、世界的に見て日本の近世城郭群の歴史的普遍性がより明確になると考えます。

4.世界遺産における拡張資産の主な事例について

(1)フランス「ロワール渓谷」

1981 年単独登録された世界遺産「シャンボール城と領地」は、 2000 年「シュリー = シュル=ロワールとシャロンヌ間のロワール渓谷」として再登録され、ロワール渓谷最大の城である「シャンボール城」はその中に包含されることとなりました。

ロワール渓谷には 300 を越える古城が存在し、それらは中世の城砦やルネサンス期に造られた王城です。ルイ 14 世の頃からヴェルサイユ宮殿の存在により、ロワール渓谷の諸城の政治的重要性は失われますが、城の改修が継続され今日に残されています。

(2)「ベルギーとフランスの鐘楼群」

ユネスコは、 1999 年世界遺産に「フランドル地方とワロン地方の鐘楼群」として 32 の鐘楼を登録しました。 2005 年にこれらにワロンのノール=パ・ド・カレー地域圏、ピカルディー地域圏の 23 の鐘楼を追加し、「ベルギーとフランスの鐘楼群」と名称が変更されました。これは国境を越えた統合の事例です。

(3)北京と 瀋 ( しん ) 陽 ( よう ) の 明 ( みん ) ・ 清 ( しん ) 王朝 ( おうちょう ) 皇宮 ( こうきゅう )

1987 年に世界遺産登録された北京の 故宮 ( こきゅう ) 博物院 ( はくぶついん ) は、世界最大の皇宮で、明・清の 24 代の皇帝の宮城でした。 2004 年には清の前身「 後金 ( こうきん ) 」の皇帝の皇宮並びに清王朝の 離宮 ( りきゅう ) であった瀋陽の「瀋陽故宮」が追加登録されました。

以上のように「まとまりのある一定地域」において歴史的に価値ある遺産が追加登録又は再編成された事例があり、「姫路城を中心とした日本の近世城郭群」という主題と資産構成は、合理性をもっていると考えます。

5.松本城の世界文化遺産の登録基準の見直しについて

(1)当初提案の登録基準( ⅰとⅳの解説)

平成 18 年度「世界遺産暫定一覧表記載資産候補提案書」において提案した、 i とⅳの登録基準について次のように解説しました。

ⅰ 人類の創造的才能を表現する傑作
日本の近世城郭は「天正・文禄期」「慶長前期(関ヶ原合戦前)」において、天守の城壁は下部に下見板をはり雨から城壁を守っていた。その上部に白漆喰の白壁が塗られていた。やがて、「慶長後期(関ヶ原合戦後)」には優美な外観の、権威の象徴としての白亜の城が造られるが、それは天守の性格が戦略的城郭から領国支配の拠点としての城郭に変ったことを意味していた。松本城天守は日本城郭史の上で現存する最古の五重六階の天守である。

ⅳ 人類の歴史上重要な時代を例証する建築様式・建築群・技術集積または景観の優れた例
近世城郭は中世山城から平城や平山城に変化するが松本城は典型的な平城で複合扇状地の軟弱地盤の上に築かれている。緩やかな傾斜に築かれた総堀・外堀・内堀は水面を一定に保つために堀の各所に「 水切 ( みずきり ) 土手 ( どて ) 」や土橋を設けて水の流下速度を調節している。

天守建築に当たっては天守台内部に 16 本の栂の土台支持柱を埋め込み天守の加重を地面に直接伝える工夫がなされている。また、軟弱地盤に石垣を積み上げるために堀底に 筏 ( いかだ ) 地形 ( じぎょう ) が施されたり地盤のズレを防止するため 土留 ( どどめ ) の杭も打たれている。

文禄期の石垣を積み上げる技術では天守台上面は 正矩形 ( せいくけい ) に築くことができず松本城天守台は四周の石垣が内側に湾曲している「糸巻型」である。この 天端 ( てんぱ ) の歪みを「武者走」で吸収し、一階 入側柱 ( いりかわばしら ) 内の 身舎 ( もや ) を正しい長方形に造り、上層階に 柱筋 ( はしらすじ ) を通し天守の重量をこの一階 身舎 ( もや ) 下の土台が受け止め、さらにその下方の土台支持柱につながっている。まさに湿地帯に技術の粋を集めて造られた天守である。

(2)登録基準「ⅱ」の追加(「姫路城を中心とした日本の近世城郭群」により)

「姫路城を中心とした日本の近世城郭群」という主題を設定する中で「松本城」の登録基準を考えた場合、ⅱの「ある期間を通じて、または、ある文化圏において建築、技術、記念碑的芸術、町並み計画、景観デザインの発展に関し、人類の価値の重要な交流を示すもの」が該当すると考えられます。

すなわち、姫路城・彦根城・松本城等がそれぞれに建築様式が異なり、それを支える建築技術も多様です。 織豊 ( しょくほう ) 政権 ( せいけん ) から関ヶ原の戦を経て徳川政権が強固になるに連れて城郭の性格が戦略的拠点から領国支配の拠点としての天守に変化しました。それにともない、天守のデザインは堅固な下見板張りの黒を基調とした意匠から姫路城に代表される「権威の象徴としての白亜の天守」が多数建築されるようになります。このように、政治の変革が天守のデザインに反映してくるという歴史的事実を踏まえ「ⅱ」の基準を追加することとなります。

6.その他

(1)姫路城・彦根城等との統合・再整理に向けた動きについて

以上のような考察から、松本城の個別検討課題である既登録遺産「姫路城」、既暫定一覧表記載遺産「彦根城」等との統合・再整理が可能であるか、また、その実現の可能性等について次のとおり意見交換を行いました。

・平成 19 年 6 月 22 日  彦根城との意見交換

・平成 19 年 11 月 7 日  姫路城との意見交換

平成 20 年度は、国宝四城で「日本の近世城郭群」としての統合が可能かさらに研究を深めたいと考えています。

したがって、「姫路城を中心とした日本の近世城郭群」として申請するため、各自治体の合意形成と資産構成、今後の保存計画等の検討が早急に必要です。今後、国宝四城を中心に研究を深めます。

(2)「松本城」継続審議以降の周辺整備の現状と見通しについて

ア 松本城外堀の復元(南・西外堀 約 8,900 ㎡)

(ア)平成 19 年 10 月 23 日 市長、外堀復元を表明( 11 月 1 日地元説明会を実施)

(イ)平成 19 年 11 月 2 日 松本市議会教育民生委員協議会と建設委員協議会は外堀復元を了承

(ウ)平成 20 年 3 月 西外堀の外側ラインを確定のため発掘調査実施予定

イ 国史跡「土井尻土塁」の復元と整備

( H 19 . 2 国史跡追加指定約 680 ㎡ 全体計画約 1,700 ㎡)

(ア)平成 19 年度 歴史公園として整備のための基本設計を策定

(イ)平成 20 年度 土塁復元のための発掘調査と実施設計の作成

(ウ)平成 21 年度 歴史公園として整備

ウ 松本城周辺建物の高さ制限

景観法に基づく新たな「景観計画」の策定と松本市都市景観条例の改正を行います(平成 20 年 4 月 1 日施行を予定)。 松本城周辺は、「お城歴史的景観区域 」として 高さを制限 ( 29.4 m ) 。

都市景観計画説明会は、平成 19 年 10 月 23 日から5回実施

エ 松本市立博物館の移転(二の丸古山地御殿跡)

平成 19 年 7 月に基幹博物館基本構想策定委員会の提言を受け、平成 20 年 7 月を目途に基本計画策定委員会が基幹博物館の移転場所、経費、施設の規模等について基本計画を策定し、遅くとも平成 26 年度までに移転完了の予定

オ 松本城管理事務所の移転(本丸内)

松本城管理事務所の移転については市立博物館移転と連動して検討

カ 世界遺産登録に向けた今後の取組み

平成 19 年 8 月 22 日に「史跡松本城整備研究会」の指導助言を得ましたので、今後、松本市関係部課を中心に「国宝松本城を世界遺産に」推進実行委員会とともに「姫路城を中心とした日本の近世城郭群」という主題のもとにいかに運動を推進すべきか検討

※「史跡松本城整備研究会」は委員 6 名(有識者)と指導助言者 3 名(文化庁、県等)で構成

(3)今後「姫路城を中心とした日本の近世城郭群」として資産を再構成する際の課題について

日本の近世城郭史の研究を深め世界の城郭と比較し唯一性を明確にするとともに姫路城・彦根城等と共同研究を深め、合意形成を図っていきます。

ア 姫路城・彦根城等と「姫路城を中心とした日本の近世城郭群」としての統合再整理について、具体的な推進計画を文化庁の指導助言を得て作成し、研究を推進します。

イ 「 松本城および周辺整備計画」の充実を図ります。

ウ 国及び県の指導・助言をいただき、また庁内関係部課の強化を図り、研究を推進します。

7.資料
1 松本城の普遍的価値

(1)松本城の歴史的特徴

ア 武田信玄によって整えられた戦国時代の 縄張 ( なわばり ) を残す平城

イ 天守は、中山道・甲州街道を固め関東の徳川家康を監視する豊臣方の城として築造

ウ 天守は、近世城郭史の中で「天正・文禄期」に位置付けられる現存する日本最古の 5 重 6 階の天守

エ 戦略的拠点としての天守から領国支配のためのシンボルとしての白亜の城郭へと 1600 年以降変化するが、松本城は戦国末期戦略拠点としての性格を色濃く残す天守(黒漆塗り下見板張りの天守)

オ  1633 年から 1634 年にかけて松平直政により大壁づくりの 瀟洒 ( しょうしゃ ) な月見櫓が増設され、戦略的天守と泰平の世の城郭が複合連結された城郭

カ 女鳥羽川と薄川の複合扇状地に工夫して建てられた天守(筏地形・天守台内部に 16 の土台支持柱・地盤のズレを防止する土留の杭列)

キ 望楼型天守と層塔型天守の両方の要素をもつ天守

ク 典型的な「 梯 ( てい ) 郭式 ( かくしき ) + 輪郭式 ( りんかくしき ) 」縄張をもつ城郭

ケ 天守群は、「連結複合式」と呼ばれる構成

コ 虎口は攻撃的な外枡形

(2)松本城と類似施設(他の国宝三城)との比較

ア 戦国末期鉄砲戦に備え戦略的期城郭として造られ、現存する 5 重 6 階の天守としては我が国最古の天守

イ 松本城は国宝四城のうち唯一の平城(他は平山城)

ウ 戦国末期の戦略的な天守と泰平の世になって付設された櫓が複合連結された城郭

エ 松本城総堀両岸より防御杭列が発見された貴重な歴史的遺構をもつ。(全国 2 例目)

オ 松本城の縄張りは典型的な梯郭式 + 輪郭式縄張

※姫路城―― 渦 ( か ) 郭式 ( かくしき )   彦根城・犬山城――  連 ( れん ) 郭式 ( かくしき )

カ 松本城天守は国宝四城の中で唯一の連結複合式天守

キ 市民の意思と行動により明治初期の破壊を免れ保護された天守

2 近世城郭の発達史



3 国宝四城比較一覧

姫路城 彦根城 松本城 犬山城
所在地 兵庫県姫路市本町 滋賀県彦根市金亀町 松本市丸の内 愛知県犬山市東丸の内
天守築造年 池田輝政 慶長 6 年( 1601 )から 14 年にかけて築造  天守 1608 年(棟上)、 1609 年完成西の丸築城は本多忠政元和 4 年( 1618 )築造 慶長 8 年( 1603 )から約 20 年をかけて天下普請で築城( 12 の大名)天守は慶長 11 年( 1606 )完成京極家大津城の天守移築改造と言われる。 文禄 2 年から 3 年( 1593 ~ 94 )天守・渡櫓・乾小天守寛永 10 年から 11 年( 1633 ~ 34 )辰巳附櫓・月見櫓を増設 かつては美濃金山城天守の移築説があったが現存 天守は慶長 6 年( 1601 ) 小笠原吉次が築造。1 ・ 2 階――慶長 6 年新設最上階――元和 6 年( 1620 ) 3 階部分の唐破風を付設。 1 ・ 2 階の大棟を下げ最上階の廻縁と高欄を設置。
近世城郭史区分 ③慶長後期 ③慶長後期 ①天正・文禄期 ④元和以降 ③慶長後期
築造者 池田輝政 (徳川方) 井伊直継・井伊直孝 石川数正・康長 小笠原吉次
形式 渦郭式平山城 (姫山) 連郭式平山城(比高 50 m) 梯郭式 +輪郭式 平城 連郭式平山城(比高 40 m)
別称 白鷺城 金亀城(こんきじょう) 深志城 白帝城
高さ 天 守  31.5 m天守台  16 m 天 守 約 15.5 m天守台 約 4.9 m 天守   29.4 m天守台 約 5 m 天 守 約 18 m天守台 約 5 m
石垣 チの櫓・上山里曲輪・菱の門東側に秀吉時代の古式の石垣存在。転用石 天守石垣は牛蒡積み、山崎曲輪の石垣は屏風折れの石垣、転用石地盤の弱い部分の鉢巻石垣 野面積の石垣 野面積の石垣
天守台 一階北辺が南辺より 3 分の 1 間長い台形不等辺矩形 石垣内に階段室あり間口 11 間・奥行 7 間 天守台内部に 16 本の栂の土台支持柱を埋め込んである。上面は 4 周とも内側に湾曲した糸巻型 天守台東面が斜めで天守台は台形。南側 11 間北側 10 間
天守形式 望楼型  5 重 6 階 地下1階 望楼型  3 重 3 階 望楼型天守の形式と層塔型天守の双方の特徴を持つ。 5 重 6 階 望楼形  3 重 4 階 地下 2 階
天守構成 連立式( 5 重天守・ 3 重乾小天守・西小天守・東小天守) 複合式天守 (天守・付櫓・多聞櫓) 連結複合式(天守・渡櫓・乾小天守・辰巳附櫓・月見櫓) 複合式天守
天守平面 1 ・ 2 階 長辺 13 間( 1 階南のみ 14 間)短辺 10 間中央 身舎 ( もや ) は長方形 3 階より矩形平面 長辺 11 間・短辺 7 間で層塔型での建造不可能東西 19 m・南北 11 m 長辺東西 9 間・短編南北8間。四周とも内側に湾曲糸巻型で不等辺矩形1 階 身舎 ( もや ) 部分は 7 間 6 間の長方形。湾曲部分を武者走りで調節して入側柱内は正しい長方形 1 階平面 8 間× 9 間( 18 m× 15 m)
天守地階 天守台石垣内部に構築東北隅・西南隅に便所各 3北側水流しあり 居住空間として使用 階段室あり なし 地下 2 階
天守 1 階 同一構造。南北に母屋内を分け、北側は納戸で 3 分狭間・石落あり 初重入母屋破風両翼に切妻破風 倉庫 一階上段の間押床・違棚城主の間(幕末作)
天守 2 階 二重目装飾金具の唐破風と入母屋破風 武者営所 武具の間。棚あり
天守 3 階 母屋 1 室・中二階あり南北入側外側に武者走あり 石打棚 三重入母屋破風の屋根に唐破風・高欄付き廻縁 倉庫 入母屋と唐破風より採光破風の間
天守 4 階 3 階と同一構造 石打棚 ・・・・・ 御座所 望楼 高欄の間
天守 5 階 第 4 重の屋根裏階 ・・・・・ 作戦会議室 ・・・・・
天守 6 階 4 周に入側を設け1室棹縁天井・舞良戸・明障子書院造りの住宅風意匠 ・・・・・ 望楼 ・・・・・
天守 5 階 第 4 重の屋根裏階 ・・・・・ 作戦会議室 ・・・・・
天守 6 階 4 周に入側を設け1室棹縁天井・舞良戸・明障子書院造りの住宅風意匠 ・・・・・ 望楼 ・・・・・
柱・梁 中央部地下から 5 階まで心柱 2 本・通し柱柱間 6 尺 5 寸京間寸法 通し柱なし手斧削りあり柱間 6 尺 5 寸京間寸法 心柱なし。 2 階ごとの側柱・入側柱は通柱 110 本。管柱は 110 本2 階ごとのブロックを 3 つ積み重ねてある。 天守を支える地階に中吊りの土台材が見える。手斧削りがみられる。
乾小天守に火灯窓出窓・連格子・土戸・二連三連・鉄格子窓 1 階突き上げ戸・ 2 階 3 階に花頭窓 武者窓・竪格子窓、突上棘乾小天守と辰巳附櫓に花頭窓あり2 階・ 4 階に引き戸あり 1 階開き戸  2 階突上戸最上階花頭窓は装飾
石落 塗籠め袴腰型 (中央)唐破風造の出窓型 なし 天守代天端に合わせて天守・乾小天守設置 石落 1 箇所
狭間 姫路城内約 500 の狭間 隠し狭間あり 天守に 115 の狭間あり ・・・・・
廻縁・高欄 なし 3 階高欄つき廻縁 6 階は高欄つきの設計であったが途中で設計変更月見櫓に刎高欄と廻縁あり 4 階高欄・廻縁
白漆喰塗籠。最上階柱形を見せた塗籠の真壁造り 惣塗籠大壁造り 惣塗籠大壁造り 最上階白木柱を見せる真壁造り
下見板 なし 天守 1 階部分 下見板張りは天守・渡櫓・乾小天守・辰巳附櫓にあり 天守 1 階部分
屋根 本瓦葺 鯱・・金箔鯱瓦 本瓦葺 本瓦葺
破風 千鳥破風・唐破風 切妻破風・唐破風 千鳥破風・唐破風 3 階屋根裏階、唐破風より採光
17 の城門建築いずれも重要文化財。(水の五門は国宝)・「ぬ」の門は 鉄門 ( くろがねもん ) ・「と」の 1 門は透扉 大手口・表門口・東門口・黒門口・山崎口
5 つの城門内城域 (二の丸)佐和口・京橋口・船町口・長橋口が開かれている。
黒門は復興・太鼓門は復元 本丸門、完全な復元ではない。
堀・土塁 螺旋上に 3 重の堀内堀・中堀・外堀土塁部分的に残る 金亀山の周囲を琵琶湖と連絡する内堀。中堀 外堀・空堀 (切堀)竪堀と登り石垣のセットが 5 条あり内堀鉢巻、腰巻土塁あり 総堀・外堀・内堀総堀・外堀の周囲に土塁(総堀残存土塁三ヶ所あり)西総堀残存土塁は国史跡 背後は木曽川の断崖。高所に本丸、南へ二の丸・三の丸と順次下がるように石垣を組む。その南側平地に侍町周囲に外堀と土塁を回す。
御殿 ・・・・・ 表御殿 (復元)楽々園 (城主の日常生活の屋敷・槻御殿)玄宮園(接待饗応)回遊式庭園数奇屋茶亭 ・・・・・ ・・・・・
馬屋 ・・・・・ 厩・・全国城郭中唯一の遺構 ・・・・・ ・・・・・
保存 明治 13 年 太政官令で保存決定明治 15 年 備前丸焼失明治 43 年 天守修理工事昭和 26 年 国宝指定昭和 31 年より 8 年間の復元修理 明治初期の廃城を免れ、明治天皇北陸巡行のおり大隈重信は地元の熱い保護要請を受け明治天皇に保存を訴え修復された。その後彦根城と城下町は戦火にあわず、昭和 27 年国宝指定昭和 32 ~ 35 年天守解体修理工事 明治 5 年 1 月競売に付されたが市川量造らの努力で買い戻される。明治 34 年から大正 2 年にかけて小林有也らの努力で明治の大修理。昭和 11 年国宝。昭和 25 年から 30 年にかけて国の直轄として解体復元工事。昭和 27 年国宝再指定 維新後廃城後、区長堀野良平らの保存運動で破却を免れる。県有公園となる。明治 24 年濃尾地震で大破修理を条件に明治政府は旧主成瀬家に譲渡。明治 32 年修理竣工平成 16 年「財団法人犬山白帝文庫」所有となる。
遺構 大天守・西小天守・乾小天守・東小天守・天守丸渡櫓・天守丸台所・現在天守群等 80 余棟が現存。天守群 8 棟国宝、その他 74 棟重要文化財107 haが特別史跡三の丸以内は特別史跡平成 5 年 12 月 10 日 世界文化遺産登録 天守及び付櫓・続多聞櫓 (国宝)天秤櫓 (重要文化財)西の丸三重櫓 (重要文化財)佐和口門続櫓・佐和口多聞櫓・二重櫓・厩 (国指定重要文化財9)世界文化遺産暫定登録記載済 天守・渡櫓・乾小天守辰巳附櫓・月見櫓内堀・外堀 (一部)総堀(一部)西総堀土塁(残存) 天守
城下町 内曲輪 (居館・天守群)中曲輪(武家屋敷・寺社)外曲輪(町屋・寺社)空襲により焼失 内堀の外側二の丸には上級武家屋敷。中堀を隔てて三の丸が置かれ三の丸外堀の東と南の外周に城下町が展開 町人地は城郭の南部と東部に展開。上級家臣団は三の丸。下級中級武士は城郭北部並びに東総堀東部近世の景観は明治期の大火で消失善光寺街道の道筋、前方遮断の道路の跡、町割りの跡残っている。 城下町は市街化が進み古い町並みは少なくなった。南方に広がる城下は町屋を中央の縦筋にとり両側に侍屋敷、寺院を配し外堀を廻している。
歴代城主 8 家 13 代池田・本多・松平・榊原・松平・酒井 井伊家 16 代 6 家 23 代石川・小笠原・前戸田・松平・堀田・水野・後戸田 元和 3 年以降尾張藩成瀬氏 9 代
歴史的重要性 1600 (慶長 5 )年の関ヶ原の合戦後、家康からその戦功で池田輝政が入城し、1601 (慶長 6 )年現存する大・小天守を構えた。家康側の西国の押さえの城郭として築城された。天守は慶長 13 年棟上をおこない翌年には竣工した。姫路城を中核として淡路岩屋城・同由良城・播磨明石城・播磨高砂城・播磨赤穂城・備前下津井城などを大坂夏の陣までに 築城改築し大坂城包囲網が形成されている。 戦略的観点から築城・国替えなし。西は琵琶湖、東は中山道と北国街道が交わる。京都に隣接して水陸両交通、戦略上の最重要拠点・琵琶湖上を掌握し大坂城の豊臣勢力を封じ込める要としての、いわば西国の押さえとしての城郭である。 1590 年小田原の戦い以後秀吉が関東の家康を監視する城として造らせた。沼田・上田・小諸・松本・高島・甲府の諸城の要の城。鉄砲戦に備えた戦略的な性格の強い 城郭。寛永 10 年から翌年にかけて家光の従兄弟松平直政により造られたと推定される辰巳附櫓・月見櫓が複合。泰平の世の城郭が複合 犬山は東は可児、多治見、北は木曽川をはさんで  各務原 ( かかみがはら ) 、西は丹羽郡、南は小牧に接し交通の要衝であり、また、木曽川の用材管理の拠点となっていた。

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