国宝松本城を世界遺産に!長野県松本市にある、国宝松本城を、松本市の新たな文化の創造とまちづくりの推進のため、世界遺産登録への推進運動を紹介しています。

検討状況報告書資料 松本城の歴史的価値 松本城の唯一性

はじめに-松本城天守世界遺産暫定一覧表記載継続審議となる

(1) 「世界文化遺産特別委員会」における調査・審議結果について

松本市と長野県は松本城に関する 「 世界遺産暫定一覧表記載資産候補提案書」を平成18年11月30日に文化庁「世界文化遺産特別委員会」に提出した。

平成19年1月26日審議結果が発表され、追加記載に提案のあった24文化遺産の中から以下 4件を「世界遺産暫定一覧表」に追加記載することが適当とされた。

世界文化遺産暫定リストに追加される提案名○ 富岡製糸場と絹産業遺産群 (群馬県/沼田 市・藤岡市・富岡市・下仁田町・甘楽町・中之条町六合村)

○ 富士山 (静岡県/富士宮市・御殿場市・裾野市・小山町・三島市・清水町・静岡市 山梨県/富士吉田市・身延町・西桂町・忍野村・山中湖・鳴沢村・富士河口湖町)

○ 飛鳥・藤原の宮都とその関連資産群 (奈良県/明日香村・桜井市・橿原市)

○ 長崎の教会群とキリスト教関連遺産 (長崎県/長崎市・佐世保市・平戸市・五島市・南島原市小値賀町・新上五島町)

松本城は今回「継続審議」とされた。以下に掲げるのは「世界文化遺産特別委員会」の松本城に対する評価である。

○松本城

高い技術により築造され、天守閣をはじめとする城郭の主要建築が残存する我が国唯一の平城の事例として、価値は高い。なお、現時点での個別の課題は次のとおりである。

①主題

主題及び顕著な普遍的価値について、検討が必要。その際には、近世の大名文化を背景に形成された城郭又は城下町の観点から本資産の位置付けを明確化するとともに、城郭のみの資産構成が適切であるのか、あるいは城郭にいては既登録の「姫路城」、暫定一覧表に既記載の「彦根城」との統合が可能であるのか等について、検討が必要。

ただし、城下町の観点から捉えた場合には、他の提案の中に主題の類似するものがある。

②資産構成

城郭の堀及び土塁等の骨格を表す諸要素の保存状況、城郭と一体を成す城下町の諸要素に対する評価の視点が必要。

ここでは、松本城が高い技術により築造されていること、城郭の主要部分が残存する日本唯一の平城であることが評価されている。

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個別の課題として主題及び普遍的価値の検討が求められた。主題ということは「松本城」という取り上げ方についてである。すなわち、世界遺産選考の基準が改められ、近年は「一群の構成資産が相互に関連性、連続性を持ち、総体として独自の文化を表しているようなものを含め、資産の内容・構成が多様化する傾向がある。」という動向を踏まえて単体で世界遺産を目指す方向の再考を求められたのである。そして、既に世界遺産に登録された「姫路城」、暫定一覧表に既に記載されている「彦根城」との統合が可能であるかについて検討するという行き方があることを示唆している。

このことは・姫路城・彦根城・松本城等をリンクして「日本の近世城郭群」という資産名での登録を検討課題としみてはどうかという示唆である。また、城下町の観点から捉えた場合は他の提案の中(今回・金沢市「城下町金沢の文化遺産群と文化的景観」・高岡市「近世高岡の文化遺産群」・萩市 「 萩城・城下町及び明治維新関連遺跡群」が城郭と城下町を提案している。)に主題の類似するものがあると指摘している。

資産構成について今回 「 松本城」は13件を上げている。

①天守 ②乾小天守 ③渡櫓 ④辰見附櫓 ⑤月見櫓 ⑥黒門枡形 ⑦太鼓門枡形 ⑧本丸御殿跡

⑨二の丸御殿跡 ⑩ 内堀 ⑪外堀 ⑫ 総堀の一部 ⑬西総堀土塁跡

これらの保存状況と城郭と一体をなす城下町の諸要素の評価の観点が必要としている。

(2)世界遺産運動の新たな展開

平成19年1月23日を境に 「 松本城を世界遺産に」の運動は新たな段階に入ったといわざ るを得ない。松本城をグローバルな視点から世界の類似施設と比較研究を行い顕著な普遍的価値とは何かを検討するとともに、平成11年策定の「松本城およびその周辺整備計画」を着実に実施に移していかなければならない。このことは、松本城が日本の城郭としてもつ普遍的価値に加え、世界の顕著な普遍的価値をもつ資産として整備していくことである。もし、世界に通用する普遍的な価値にもう一歩ということであれば、世界遺産登録に向け、松本城の普遍的で歴史的な価値を世界にどうアピールして行けばよいか、新しい視点を見出さなければならない 。

以下、松本城の歴史的価値と世界に通用する唯一性について考察する。

2.松本城天守の歴史的特質
(1)武田信玄によって整えられた戦国時代の名残の縄張りを残す松本城

1550年(天文19)甲斐の武田信玄は信濃の府中松本に侵攻し守護小笠原氏を敗走させ、これを手中に した。以後 33 年間深志城を整備し信濃経営の兵站基地とした。近世松本城の本丸・二の丸・三の丸の 縄張りは、ほぼこの時、出来上がっている。 1582年(天正10)武田氏が滅び、旧地を回復したのは小 笠原氏で、深志城を松本城と改めた。

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①坂西氏 (ばんざいし)とその居館

小笠原氏の城将坂西氏の館城は、平地に築かれた方1丁(約 120m)四方の館で周囲に堀をうがってその土を掻き揚げて土塁を造り防塁としていた。この主郭部分は現松本城本丸付近と今の所は考えられて いる。また、東正面虎口の外には柵木を巡らした二の郭が存在したとも考えられている。

小笠原時代坂西 ( ばんざい ) 氏館城 (1500年頃)

館城は日常生活の場に防備を施した簡易の城であり、坂西氏は郭内に自らの居館と親族の 殿舎を置き、物見櫓を配置し土塁上には柵木が設置されていたと推定されている。
配下の武士は郭外に住み平時は農業を営んでいた。二の郭の門前では市が開かれていたと考えられている。

小笠原時代坂西 ( ばんざい ) 氏館城 (1500年頃)

②武田氏と深志城の縄張り

天文 19年(1550)武田信玄は小笠原氏を追い信濃府中を 手中にする。武田氏は小笠原氏の本拠の山城の林城を破却し湿地帯の中の深志城に着目し、林城自落4日後の天文 19年7月19日に修築の鍬立(くわだて)を行い、23日には 総普請に取りかかっている。近世の松本城の縄張りには 武田流築城術の特徴である馬出が次ぺージ図のように4ヶ所、さらに、南門も馬出であったと推定されることから、武田氏時代には次頁の図のように坂西氏館は大きく改変されたと考え られる。

城将は馬場信房・信春父子で、郭を広げ・堀は3重に広げられ土塁が本丸・二の丸・三の丸の周囲に構築された。

この広大な城地は征服地にあって郭内に兵力を蓄え村上氏・上杉氏と対する信濃経営上、戦略物資の集積を図る兵站基地として必要な広さであったと考えられ ている。又、現在の研究では女鳥羽川は武田氏時代にその土木技術もって今のように曲げられたと推定されている。この時代は本丸も二の丸も三の丸もすべて土塁で囲まれ、石垣はなかった。

したがって、松本城の土塁は武田氏時代にその原型が築かれたと考えられる。

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近世松本城への5つの出入口は武田氏時代の馬出であったと推定されている。

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馬出の構造
1  南大手門
2 東門馬出
3 北門馬出
4 北不明門(北あかずの門)馬出
5 西不明門(西あかずの門)馬出

 

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③戦国時代の城下町

信濃の守護小笠原氏は当初井川の館に本拠を置いていた。やがて戦国時代になると山辺林に本拠を移した。深志城は小笠原氏時代本城である林城の支城であった。

戦国大名小笠原氏の城下について考える。

下図が示すように小笠原氏林城の城下町は山城の下に侍の屋敷が並んでいる。武具等戦いにかかわるお抱えの職人の住まいがあったと推定される。また、家臣団の全てが城下に住んでいたわけではない。兵農分離が進んでいない戦国期ではすべての家臣を農村から引き離し城下に集住させることは不可能であった。

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林城の城下 林城の城下

したがって物資の集散地であり「市」が立っていたのは古い伝統をもった松本の 市町 ( いちまち ) であった。

武田信玄が林城を破却し支城であった平城である深志城を3重の堀に囲まれた城地に改修したのは、偏に交通の便のよさと物資の集散地としての地の利であったと推定される。既にあった市町の地域に戦国大名武田氏が城を整備したのである。天文19年には、武田氏は村上氏と対立しており東北信への兵站基地としての役割を深志城は負うのである。天文20年には中信の平瀬城、天文21年には安曇郡小岩岳城を攻め、天文22年には村上氏を4月9日に埴科葛尾城から追い、4月22日には第1回川中島の戦いがおこなわれている。

武田氏は天正10年に滅び33年間の支配は終わりとなった。残念ながら戦国大名武田氏の城下町松本の様子は不明である。

④ 近世松本城下町の形成

織田信長による安土城下町は城下に家臣団を集住させ、大名に直属していた商工業者と市場の商職人の区別をなくし城下へ集合させ近世城下町が出現した。小笠原氏から水野氏までの松本の城下町の成立過程を以下に示す。

1 小笠原貞慶―城下町の基礎をつくる

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小笠原貞慶―城下町の基礎をつくる地蔵清水と泥町(柳町)にあった町人町を残らず本町に移し、東町、中町をつくった。浄林寺を山辺の林より伊勢町に移し、生安寺を泥町より本町に移し、瑞松寺を飯田町から宮村町へ移した。

2 石川氏―天守の築造に力を注ぐ

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石川氏―天守の築造に力を注ぐ片端、袋町、葵馬場に武家屋敷をつくった。また、町人町の中の宮村町にも武家屋敷をつくった。正行寺や極楽寺を栗林村から移した。
松本城下町は水野時代で一応の完成をみる。

3 小笠原秀政・戸田氏・松平氏―整備が着々と進む。

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小笠原秀政・戸田氏・松平氏―整備が着々と進む。 小笠原秀政は飯田町、小池町、宮村町などの枝町を割った。戸田氏は御徒士町、堂町に武家屋敷をつくった。松平氏は六九馬屋をつくり、新町、田町、片端の武家屋敷を整備した。

4 水野氏―城下町がほぼ完成

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水野氏―城下町がほぼ完成荻町、上土、北馬場などに武家屋敷をつくった。町人町が整えられ周辺に寺社が配置されて城下町はほぼ完成した。

城下町は防備がほどこされた町である。経済効率を考えれば街路は碁盤の目状が理想である。 「 遠見遮断 」 とか 「 前方遮断 」 という一本の道を屈曲させて設置したり、丁 字路、喰い違い、鍵の手等の防衛上の工夫がされている。
また、寺の配置も考慮されている。寺は城下町のはずれに寺町として配置されている。松本の場合は城下の東側にラインを作っている。寺は町屋より堅固に造られており、敵が侵入してきたとき城兵が城を出て城下末端の寺院でまず敵を迎え討つことができる。つまり、城の出丸的役割を担っている。

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松本城は以上見てきたように戦国大名武田氏の城下町から小笠原から水野氏までかかって近世城下町として完成をみた。

⑤藤堂高虎の城下町

近世城下町はさらに発展をとげる。四国今治の城下町は慶長6年(1601)から町割が開始された。次頁、図 aに見られるように辰の口に続く南北の町筋を本町とし、海岸側から風早町・本町・米屋町・室屋町と四筋として(中浜・片原町は後になって成立)、城下町の防備を意識して町屋の北側に寺町を東西に配している。道路は直線的に通されている。このプランを遂行したのは藤堂高虎で、高虎は泰平の世の到来を予測し、都市の経済発展を強く意識して交通の便を考えて直路を採用している。高虎は城下町の街路の直線化を伊予の板島・大津でもおこなっている。

図bは藤堂高虎が建設した上野城下町である。ここには防衛のための丁字路はみられない。商業の振興を重視し町筋を直線化して何本も並立させ、しかも道幅を拡大している。しかし、城下町防御の配慮は怠りない。本町筋では遠見が遮断されている。三筋町の南の馬場がありその前面は忍者町・鉄砲足軽屋敷・さらに西には城代藤堂采女の下屋敷が置かれい城下町東南の寺町も防御の役割をになっている。高虎は武家屋敷と町屋が分離して一体感にかけていた筒井氏時代の城下町を否定して両者と寺社を有機的に結合させた新たな城下町を建設した。

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図 a 今治城下町

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今治城

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図b  上野の城下町
1古天守    2城代屋敷
3本丸    4天守
5作事室   6御殿
7馬場    8大名小路
9池田伊予屋敷
10北谷馬場  11東大手
12西大手   13北谷口(搦手)

本町筋
A片原町  B東町  C中町 D西町E向島町

二之町筋
F鍛冶町 G魚町 H小玉町 I福居町

三之町筋
J相生町(風呂屋町) K紺屋町 L三之西町 M徳居町(今治の町人移住)

(この頁三図は「江戸時代の設計者」  藤田達生著講談社現代新書より)

(2)中仙道・甲州街道を固め関東の家康を監視する豊臣方の城として築造された松本城

①豊臣政権下、徳川を監視する戦略的な城郭としての松本城

豊臣秀吉は 1590年(天正18)小田原の戦いに勝利し天下を掌握すると徳川家康を関東に移した。そのため、小笠原氏は徳川氏に従い松本を去った。秀吉は石川数正を松本に入封させ江戸の家康を監視する五重六階の松本城天守を1593年(文禄2)から1594年(文禄3)にかけて築造させた。この時建てられたのは天守・渡櫓・乾小天守の3棟である。石川数正とその子康長はこのほかに総堀を整え、土塁を築き土塀を建て、諸櫓や門楼を造り、城内の館の修造および武家屋敷の建設を行い近世城郭として松本城を整備した。また、鉄砲戦を想定し堀幅を広げ、天守の壁を厚くし、銃眼を穿ち、土塁上の土塀にも2000余の狭間を作り武備を固めた。

秀吉はライバル家康を監視するために沼田・上田・小諸・松本・高島・甲府に膝下の武将を配置した。松本城はその城の一つであった。 これらの城からは金箔瓦が出土しており秀吉の権威を背景に松本城天守は築城されたと推定される。

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東海道筋は幾重にも秀吉恩顧の大名を配置し家康に備え、中仙道・甲州街道からの大坂進攻に備えて上図のような松本城出土の金箔瓦包囲網が敷かれた。

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松本城出土の金箔瓦

 

当時の火縄銃は有効射程距離は 50~60mで、50m離れて3㎝の板を撃ぬく威力をもっていた。内堀は迎撃できるぎりぎりの凡そ60mの幅に造られた。

天守のある本丸は総堀・外堀・内堀の3重の堀にかこまれていた。堀の内側には土塁が築かれその上には銃眼付きの土塀が廻されていた。本丸は石塁で防御されていた。

土塀は死角をなくすためにジグザグの折塀(おれべい)となっていた。

天守には 115の銃眼が穿たれ、壁は1・2階は28cm、それ以上の階では20cm程と銃弾が貫通しないようになっていた。

松本城の鉄砲の数は藩所有のもので文化 16年に927梃あった。この様に松本城は鉄砲戦を考慮に入れた備えがなされた戦略的城郭であった。

②戦略的城郭から領国支配の拠点としての城郭へ

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松本城天守は黒漆で塗られた下見板のために黒い色をしている。壁の1/3は白漆喰で2/3が下見板である。織田・豊臣の時代を略して織豊期( しょくほうき )と呼ぶがこの織豊期、 1600年関ヶ原の戦以前に造られた天守には下見板が使われている。

当時の建築において白漆喰で壁一面を塗った場合、雨がかかる下2/3は崩れやすかったため、下見板を張り雨をはじく黒漆を塗布した。 1583年に建造が始まり2年後に完成した秀吉の大坂城も下見板張られていた。その上、秀吉は白漆喰の壁部分も黒漆を塗り真っ黒な大坂城を出現させた。これは、天下の富と力を手に入れた秀吉が城飾りとしての金の金具を目立つように、貴族の間で最高の色とされていた「黒」を選んだからといわれている。

関ヶ原の戦いを制した家康は、秀頼及び西国の豊臣恩顧の大名を封じ込めるため下図のように大坂包囲網を敷いた。

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●は大坂を除き徳川方の城(左図は前掲藤田著「江戸時代の設計者」 99p より)

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国替えによる大名配置と新たな築城によって家康が名古屋よりも西の東海道、大和街道、山陽道、山陰道沿いの諸国と瀬戸内海を掌握し、秀頼と近畿・中国・四国・九州の豊臣方大名の広域監視体制を作り上げていった。

【姫路城】
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【彦根城】
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【家康の江戸城〔慶長期江戸城〕】

この徳川系の天守は下見板を使わず白漆喰の総塗籠の「白亜の天守」であった。 下見板は耐水性の面で白漆喰より優れていた。白漆喰は10年から20年ぐらいしかもたない。耐水性の劣る総塗籠の天守が造られた理由はその 「外観のよさ」 からであると考えられている。すなわち、城郭が 戦略上の拠点 から 領国支配の中核 としての性格を強めることになったからである。領国支配の象徴として白亜の天守が西国を中心に造られ全国に波及した。

したがって松本城が黒いのは、松本城が戦国末期の戦略的城郭の性格を築城当時はもっており、下見板を使用して戦略施設としての性格をあらわにしていたためである。

松本城は1593年から94年にかけて石川数正・康長父子により築造された秀吉側の城である。関東の徳川家康を監視する城として築かれた。戦国末期、鉄砲戦に備えた武備が城全体に施されてい る。

③ 松平直政によって増築された瀟洒な月見櫓

数正・康長父子により天守が築造されてから 40年後、1633年(寛永10)、三代将軍家光の 従兄弟松 平直政が入封し辰巳附櫓と月見櫓を付設した。この二棟には際立った武備は見当たらない。総檜造りで 三方取り外し可能な 舞良戸 ( まいらど ) や朱の 刎高欄 ( はねこうらん ) を巡らし、天井は船底天井に仕上げられている。また、壁は白漆喰の大壁造りで 瀟洒 ( しょうしゃ ) なつくりになっており、戦略的天守と好対照をなす泰平の世の櫓である。

このように松本城天守は戦う機能を備えた天守と泰平の世の優雅な櫓が複合した現存する我国最古の5 重6階の城郭建築である。
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松平直政(月照寺蔵)寛永 10年入封
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大壁造りの月見櫓

(3)軟弱地盤に匠たちが工夫をこらして造った松本城天守

①土台支持柱

松本城天守から城山に抜ける抜け穴があったという伝説がある。そして、天守の抜け穴の入り口は天守一階の北東隅といわれてきた。昭和25年よりおこなわれた解体修理の際それが確かめられた。天守の解体が終了し天守台が現れた昭和27年3月3日発掘がおこなわれた。写真のような直径50 cm 程の穴が発見された。やがてその数は16に及び穴の上部に柱状の遺物をともなうものが発見され、抜け穴はなく、土台支持柱が16本埋められていたことが確認されたのである。

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言い伝えられてきた穴は支持柱の劣化したあとであったことが明らかになった。現在、この時出土した栂の支持柱の一部が天守1階に展示されている。

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今は鉄筋コンクリートの支持柱が埋められている。

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栂の土台支持柱の展示 昭和27年鉄筋コンクリートの支持柱に変わる

②筏地形・土留の杭列

松本城は先述のように複合扇状地の先端(扇端)にあって堀の水は得やすいが、軟弱地盤であるため天守台を築くにあたり 「筏地形(いかだじぎょう)」 という工法がとられている。

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松本城の石垣は 「 野 ( の ) 面積 ( づらづみ ) 」 といわれる。
自然の石をほとんど加工せず積み上げた石垣で石材間の隙間を埋めるため、石を詰めてある。間詰石(まずめいし)という(松本城は飼い石と呼んできた)。石積みの背後のこぶし大の石を込め石(栗石)という。これは排水のために入れる石である。昭和の大修理の際、発見された筏地形及び胴木と根石の状況が下の写真である。

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(4)望楼型天守から層塔型天守へ移行する過渡期に位置する松本城天守

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天守1階の 4 面の壁はみな内側に湾曲している。西側では中央で13cm内側に入っている。
天守2階の壁も同様に 4 面内側に湾曲している。これは 1 階の柱が一番外側( 側柱 ( がわばしら ) )と壁側から 2 番目の柱( 入側柱 ( いりかわばしら ) )が 1 ・ 2 階通し柱になっているからである。
このことは天守台上面が昔の「木製の糸巻状」になっているからである。
これは、石垣が天守台天端の中央部が内側に湾曲して積まれているからである。すなわち、天守台上面は正矩形になっていないということである。松本城の造られた時代には天守台上面を正矩形にする石積技術が確立していなかった。

土台は天守台石垣の天端にあわせて写真のように部材を短くして配置されている。したがって石垣の湾曲が壁に反映して天主1階・ 2 階の壁が湾曲するのである。

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土台を短くして土台が石垣の歪みにあうように造られている。(松本城天守)

天守台の湾曲が 1610 年(慶長15)以降は石積みの技術革新によってなくなり、天守台上面が正確な矩形に普請できるようになった。松本城天守のように天守台が不等辺四角形の場合、一重目が天守台の天端を反映して矩形にならず規格化された部材で全体を組み上げることができなかった。

この石垣普請にかかわる技術的向上は層塔型天守建築を普及させることになった。(それまでの天守は望楼型天守と呼ばれている。)正矩形の天守台を造りその上に規格化された部材を用いて組み立てた。工期が短縮され、費用も安くすみ構造上の無駄がなくなったのである。

犬山城の天守台は北辺より南辺が1間長く台形となっている。姫路城天守台は南東隅が鈍角のため北辺が1/3間長くなっている。この上に望楼型の天守が築かれている。

○望楼型天守

望楼型天守は天守が誕生したときからある古い形式である。1階あるいは2階建ての入母屋造りの建物を設けその屋根の上に2階から3階だての望楼をのせたものである。

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岡山城天守 岡山城天守
(「天守のすべて①  学研」より)

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犬山城天守

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丸岡城天守

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彦根城天守

姫路城天守
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この他の望楼型天守:広島城(慶長5)・松江城(慶長16)高知城(延享18・ 享保12焼失再建)

○層塔型天守

層塔型は五重塔や三重塔を太くしたような形式である。各階の屋根は四方に均等に葺き下ろされる。構造的に見ると上階を下階から規則的に 逓減 ( ていげん ) (小さくしていくこと)させて順番に積み上げる形式である。用材の規格が容易になり城郭建築のように工期の短縮を至上とする場合は有効であった。




丹波亀山城   最上階以外の破風のない天守。
5重5階  左南面  右西面(初期層塔型天守)(図は「天守のすべて①学研」より)

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弘前城(文化7)

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丸亀城(万治3)

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破風で飾られた層塔型天守・福山城天守

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初期の層塔型天守は破風のない質素なものであったがやがて望楼型天守のように破風で飾られた層塔型天守も出現した。
その他の層塔型天守 :小倉城(慶長 15)・名古屋城(慶長17)・宇和島城(寛文5)・備中松山城(天和3)・伊予松山城(嘉永3)
松本城を建築史家は層塔型天守に位地づけている。
しかし、天守台は不等辺四角形できちんとした長方形ではない。1・2階の城壁は石垣の歪みを繁栄して内側に湾曲している。また、3階は下から2枚目の屋根裏階をもっており層塔型天守とはいいがたい面がある。また、1階ごとに決まった逓減率になっていない。下から1枚目の屋根と4枚目の屋根は出桁によって屋根の垂木を支えているが、2枚目3枚目の屋根はその下の階の天井部分がこれを支えている。また、時代的に見て藤堂高虎によりはじめて築かれたのは層塔型天守丹波亀山城(慶長 15 ・今治城として慶長13年に建てられた天守を移築)であるが、松本城はそれに先立つ文禄3~4年(1593~94)に建てられており層塔型天守とはいいがたい面がある。現在の建築史家は松本城天守を慶長20年(1615)小笠原秀政により建てられたという旧来の説を主張している。現在、松本城築城懇談会により築城を文禄3~4年とする説が有力である。こうした今までの誤った築城年代から松本城を層塔型としていると考えられる。









このように見てくると、歪んだ天守台に造られた天守ではあるが天守台の上に正しい長方形の 身舎 ( もや ) を造り上階を組み上げている。これは不定形な四辺形の上に入母屋の建築物を造り3階以上で方形に調整した望楼型天守から発想された技術がここに生かされているようにも思える。したがって、松本城は純粋な層塔型天守ではなく層塔型天守が生まれ出る過渡期の技術によって造られた天守ということができよう。

松本城天守の骨組みを見ると太い柱と梁を組みあげている。柱も側柱は29cm×29cm、入側柱は24cm×24cm、その階だけの管柱は21cm×21cmと位置によって太さが違っている。南北方向の桁材は21cm×27cm、東西方向の梁材は21cm×29cm程である。したがって今日の住宅と比べると天守の柱の強度は10倍の重量に耐え、80倍の折り曲げる力に対抗できるとされている。

3.松本城天守の国内類似施設から見た唯一性

(1)戦国末期に 、戦略的城郭として造られ現存する我が国唯一の五重六階の天守

松本城を除く国宝 3城の天守は1600年、関ケ原の戦い以後徳川政権下で領国支配のため権威を誇示する目的で 築造された白亜の天守である。それに対して、松本城天守・渡櫓・乾小天守は秀吉が家康を監視するために造らせた武備で固められた下見板張りの黒を基調とした天守である。
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姫路城 1603着工~1609完成

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彦根城 1600着工~1622完成 天守は1606完成

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犬山城
1532創建・1620完成
1・ 2階 1532創建 3・4階 1600年増築
1620年4階廻縁 唐破風を付ける

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松本城
1593~94築造
1634頃 月見櫓・辰巳附櫓付設

※松本城の太鼓門枡形・黒門枡形は外枡形形式で内枡形より攻撃性が高いといわれている。

(2)松本城は国宝4城のうち、唯一の平城である。

松本城天守は国宝 4 城の中では唯一の典型的な平城である。複合扇状地の先端に築かれた天守は軟弱地盤ゆえに天守台内部に 16本の支持柱を埋め込み天守台を強化し、堀底に筏地形を施こして石垣を積み上げる等、他の天守には類をみない工夫がなされている。
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※ 松本城は平城である。戦国時代山城は守りには利があったが、武士団を居住させ、商人や職人を住まわせ商工業を展開させるには不便であった。平城の防備のために水堀りを三重にも巡らし、土塁・土塀を堀の内側に構築して防備を固めた。松本城は 梯郭式+輪郭式 といわれる形式である(姫路城・渦郭式/彦根城・犬山城・連郭式)。国宝 4 城の中では松本城は唯一の平城である。
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姫路城・・姫山の上築かれている平山城

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姫路城6階より見た姫路市

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彦根城・・金亀山上に築かれている平山城

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犬山城・・木曽川の断崖上にある。

(3)戦国末期の戦略的天守と泰平の世になって付設された櫓が連結複合された城郭

豊臣時代の戦略的な拠点としての天守と、徳川時代の瀟洒な櫓が複合し、建築様式の違いが明確にわかり時代の変遷を感じられる城郭は他に類を見ない。



(4) 松本城総堀の両側より防御用の杭列が発見された極めて貴重な歴史遺構

昭和 45年追加指定された松本城総堀の両側から防御用の杭列が発見された。この遺構の発見は 米沢城の事例に次ぐもので、「大坂冬之陣図屏風」に描かれ大坂城の堀の防御用の杭と同じ役割を果たしていたものと推定されている。極めて貴重な歴史遺構である。

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東総堀内側〔西側〕出土の杭 東外堀外側〔東側〕出土の杭列

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東総堀内側〔東側〕出土の杭 東外堀外側〔東側〕出土の杭列

大坂冬之陣図屏風 堀の内側の土塁裾部に無数の防御用の杭が見られる。
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(5)市民の意志と行動により明治初期の破壊を免れ保護された天守

松本城天守は松本横田町の副戸長市川量造や市井の人々の努力により一旦落札された天守において博覧会を開催する等の努力により買い戻されて保存された。

このように松本城天守は民間の人々の意志と行動により保存された稀有の天守である。

姫路城は廃藩後陸軍の用地となったが中村大佐はこの名城を残すべく陸軍卿山県有朋に説いて名古屋城とともに陸軍省の費用で修理された。彦根城は明治天皇北陸行幸の折、大隈重信の力をかりて天皇に直訴し宮内省の費用で修理された。犬山城は明治 24年濃尾地震により大破した。犬山城を 国は旧領主成瀬家に修理を条件に払い下げ、成瀬家の資金により修理された。

松本城は明治 5年1月競売に付され235両余で落札されたが、下横田町副戸長であった市川量造の奔 走によって博覧会を天守で開催することにより、これを買い戻した。また、明治 30年代に傾き始め た天守を松本中学校長小林有也、時の小里頼永松本町長らの力によって県の内外から 2万円の寄付 金を集め明治の大修理を敢行した。このように民の力で守られた稀有の城郭である。

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市川量造
明治6年から9年にかけて、松本城天守を会場に5回の博覧会を開催し、天守を買い戻した。
〔明治4年3月〕

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小林有也
松本中学校長
松本城天守の荒廃を憂い小里頼永と天守保存会を造り明治の大修理を行う。

おわりに世界遺産登録への道今後の方向性を探る

(1)「世界文化遺産特別委員会における調査・審議結果について」

○「一つの主題のもとに複数の構成資産を組み立てるという手法」の重視

松本城を世界遺産にしていくためには世界遺産委員会の文化遺産登録への基準、あるいは視点が「一つの主題のもとに複数の構成資産を組み立てるという手法」が主流になっており、暫定一覧表へ の文化資産の追加記載を進める上でも十分考えねばならなくなっていることを理解しなければならな い。

また、登録された世界遺産の数において地域的、時代的不均衡が生じており、これを打開するために従来のような歴史遺産だけでなく、「産業遺産」「 20世紀の建築」「自然との共存を示す文化的景観 」などの遺産が今後注目される方向であると述べていることを考慮しなければならない。

○資産が日本の歴史・文化の一端を示す連続性を重視

国内の登録推薦にあたっては、既に一覧表に掲載された資産についても構成資産の史跡等への新指定或いは追加指定を最大限行い保護範囲を拡大することが求められている。

さらに、審議会は、国指定文化財を中心にその資産が日本の歴史・文化の一端を示す連続性のあることを重視していくとしている。

○国内外の同種遺産との比較研究・万全の保護措置・保存管理計画の策定

今回一覧表に掲載されることになった 4件についても、資産構成について改善・充実を求めている。すなわち、国内外の同種遺産との比較研究を行い普遍的な価値を証明すること。個別の構成資産について重要文化財及び「史跡への指定」「追加指定」等を行って保護措置を万全にすること。包括的保存計画の策定とそ計画のもとに個別の文化財についての保存管理計画の策定を求めているこのことは我々が今後取り組むべき方向を具体的に示唆している。

○既登録の文化財との「統合」又は「再整理」が可能であるかどうかの検討

継続審議となった文化遺産については主題・構成の熟度を高めていくための課題として以下を上げている。この項目は今回一覧表に掲載されることになった 4件に対する課題とも重複する。

① 主題の明確化と資産の範囲および網羅すべき要素の吟味をすること。

② 世界史的観点から資産の位置付けを行い普遍的価値を明確にすること。

③ 包括的保存計画の策定とそ計画のもとに個別の文化財についての保存管理計画を策定し今後の方 針、方向性、手順を整理して示すこと。

④ 既登録の文化財との統合又は再整理が可能であるか検討すること。

○都道府県域を越えてリンクする一連の文化資産群という構想の重視

そして、最後に特別委員会の報告書は 「今回の提案書の募集に当たっては、地方公共団体の意志及び複数の地方公共団体間の合意形成を前提として、種別を越えた一群の国指定文化財を中心に、地域に独特の歴史・文化の様相を総体として示し、以て日本の歴史・文化の重要な一端を担っていると判断できるような連続性のある文化資産を対象とした。これに応募のあった文化資産の総数は計 24件と数多に及び、こうした多様な文化資産の捉え方及び包括的な保護の在り方が、今や各地で注目されつつあることを示しいる。 さらに、提案資産の中には、都道府県の境界を越えてまとめられたもの又は、その可能性を秘めているものなども複数存在し、今後、一連の文化資産として保護すべきものの範囲が拡大しつつあることを示している。」 として、資産が都道府県域を越えてまとめられたもの又は、その可能性を秘めた提案について、今後さらに増加していく傾向とみている。このことは、世界遺産委員会がいう「一つの主題のもとに複数の構成資産を組み立てる手法」をとる 場合、地域の距離は問題にならないことを示唆しているように受け取れる。

(2) 松本城を世界遺産に ――― 具体的な方策―――

1 推進委員会並びに研究組織・審議機関・運動推進組織の編成

2 主題・資産構成の検討の推進

ア 課題解決の研究・審議の内容

① 主題の明確化と資産の範囲および網羅すべき要素の検討すること。

② 世界史的観点から資産の位置付けを行い普遍的価値を明確化すること。

③ 包括的保存計画の策定とその計画のもとに個別の文化財について保存管理計画の策定する。

④ 既登録の文化財との統合又は再整理が可能であるかの検討すること。
(姫路城・彦根城等との統合の可能性の検討)

今回、暫定一覧表追加掲載が継続審議となり特別委員会より提案に対する課題を示されたのを受けて今後に向けて従来の組織を整理し、推進委員会・研究組織・審議機関等の新たな編成が必要と思われる。

イ 個別の課題についての検討

① 主題の明確化と資産の範囲および網羅すべき要素の検討

このことは資産名を今回のように城郭を資産構成とする「松本城」とするか、城下町まで広げて「松本城と城下町の文化的遺産群」のようにするかについて、資産構成の明確化を求められている。

○ 松本の城下町は以下のように明治期の火災によってほぼ失われている。(別図添付)

松本町の明治期の火災

発生年月日 被災地域 焼失戸数
明治 19 ・ 2 ・ 10 東町・和泉町・下馬出・出居番・上馬出・捨堀・横町・下々町・上下町中町・天白町・正行寺小路・作左衛門小路・観音小路・裏町 973 戸半焼 25 戸
明治 21 ・ 1 ・ 4 飯田町・天神小路・小池町・宮村町・本町・裏小路・伊勢町・同心小路六九町・緑町・辰巳町・小柳町・大名町 1537 戸余
明治 23 ・ 2 ・ 7 天神小路・土居尻(飛火による) 73 戸
明治 45 ・ 4 ・ 22 堂町・東町・出居番・片端町・和泉町・袋町・新町・田町・安原町・西町同心町・口張町・旗町 1341 戸

(「東筑摩郡・塩尻市・松本市誌 現代上」より)

松本城三の丸以南に広がっていた町人地、東側に広がっていた町人地及び武家地、北側に広がっていた武家地をほぼ焼き尽くした。また三の丸内大名町より東側の武家地を焼失している。したがって、近世の建築物はそのほとんどが失われている。

○松本藩の廃仏毀釈により28寺中24寺が破却された。

明治3年から明治4年7月までに松本藩の廃仏毀釈により松本町の86%の寺院が破却された。

残ったのは真宗寺院の正行寺・極楽寺・長称寺・宝永寺の4か寺であった。これらの寺院はすべて明治期の大火で焼失している。

○松本の近代化による景観の変貌

下図は松本城の堀の埋め立て年代である。



現在の松本市と松本城
堀の埋め立て年次は「松本市史」による

明治9年から昭和7年にかけて総堀の大部分・外堀の半分ほどが埋められ宅地化された。

城下町の景観は昭和30年代の都市近代化事業により変貌していく。本町の近代化事業は昭和36年よりはじめられ、道路の拡幅、二階建てから九階建ての中高層ビルによる近代的な商店街つくりが昭和41年に完了した。

伊勢町は昭和40年3mの歩道拡幅工事に着手し41年には車道分離による歩道アーケードを設置した。中町は昭和62年、「中町くらのある町づくり」にとりくみ具体化された。しかし、この蔵群は明治21年の大火を教訓に建てられた明治の建築物である。

昭和60年「中央西地区市街地整備基本計画」により国府町・神明町・本町1~3丁目・伊勢町1~3丁目・新伊勢町・分銅町・巾上に及区画整理事業が開始され松本市街地は大きく変貌した。

②世界史的観点から資産の位置付けを行い普遍的価値を明確化する

松本城の世界史的位置付けを行い普遍的価値のある部分とそうでない部分を客観的に洗い出す ことである。もし際立って顕著な普遍性に欠ける場合、他資産とのリンクを検討する必 要がある。

③包括的保存計画の策定とその計画のもとに個別の文化財についての保存管理計画の策定

松本城には平成 11年策定の「松本城およびその周辺整備計画」がある。これにもとづき整備の推進を図るとともに、 包括的保存計画 と個別の文化財についての保存管理計画を策定しなければならない。

④既登録の文化財との統合又は再整理が可能であるかの検討

――― 姫路城・彦根城等との統合の可能性の検討  ―――

世界遺産委員会の文化遺産登録に関する傾向からすれば「既登録の文化遺産との統合又は再 整理は登録の有効手法」であ り、統合された資産に歴史的連続性をもたせれば、さらに価値を 増すことになる。

たとえば、「姫路城を中心とした近世日本の城郭群」のようにまとめた場合、日本の戦国時代の戦略的拠点としての城郭から泰平の世の権威の象徴としての白亜の城郭へ、また、山城から平城へそして平山城へと日本の城郭がたどった連続性がトータルとして収斂し、西欧の城郭に対して「日本の近世城郭」として顕著な普遍性が見えてくると思われる。

別表( P30)に掲げるのは我が国近世城郭の発達史区分である。

近世城郭は国宝城郭で天守が現存する4城は 「天正・文禄期」と「慶長後期(関ヶ原戦後)」に属しており姫路城はその最盛期の城郭である。日本の近世城郭の変遷史の上から姫路城に彦根城・松本城等を統合し「日本の城郭群」とした場合、世界的に見た城郭の唯一性がさらに明確になると思われる。

ウ  世界遺産に見る、拡大遺産の事例(統合・再整理・追加の事例)

世界遺産の中で当初の世界遺産の登録後拡大されて再登録された事例を以下に掲げる。

①フランス「ロワール渓谷」 ⅰ・ⅱ・ⅳ

1981 年単独登録された世界遺産「シャンボール城と領地」は 2000 年「シュリー = シュル=ロワールとシャロンヌ間のロワール渓谷」として再登録され、ロワール渓谷最大の城である「シャンボール城と領地」はその中に包含されることになった。

ロワール渓谷には 300 を越える古城が存在し、それらは中世の城砦やルネサンス期に作られた王城である。ルイ14世の頃からヴェルサイユ宮殿の存在により、ロワール渓谷の諸城の政治的重要性は失われますが、城の改修が継続され今日に残されている。

②「ベルギーとフランスの鐘楼群」 ⅱ・ⅳ

ユネスコは 1999 年世界遺産に「フランドル地方とワロン地方の鐘楼群」として32の鐘楼を登録した。 2005 年にこれらにワロンのノール=パ・ド・カレー地域圏、ピカルディー地域圏の23の鐘楼を追加し「ベルギーとフランスの鐘楼群」と名称が変更された。これは国境を越えた統合の事例である。

③北京と 瀋 ( しん ) 陽 ( よう ) の 明 ( みん ) ・ 清 ( しん ) 王朝 ( おうちょう ) 皇宮 ( こうきゅう )   ⅰ・ⅱ・ⅲ・ⅳ・ⅴ・ⅵ

1987 年北京の故宮博物院が世界遺産に登録された。故宮博物院は紫禁城で明と清の24代に渡る皇帝の宮城であった。これに、 2004 年、瀋陽の瀋陽故宮が追加登録された。瀋陽故宮は清の前身後金の皇帝ヌルハチとホンタイジの皇室並びに清王朝の離宮であった。追加と登録された世界遺産登録名は「北京と瀋陽の明・清王朝皇宮」である。

④アラゴンのムデハル様式の建築物 ⅴ

1986 年テルエルの4つの建築物が「テルエルのムデハル様式の建築物」として世界遺産に登録 され (○サンタ・マリア大聖堂の塔・屋根ドーム○サン・ペドロ教会と塔○サン・マルティン教会と塔○エル・サルバドル教会の塔)

1990 年にサラゴエの住民がアラゴンには重要なムデハル様式の建築物が他にもあることに気づいた。 2001年、この世界遺産は改名され、6つの建築物が追加され、「アラゴンのムデハル様式の建築物」として拡張登録された。

⑤オビエドとアスト ウリアス王国の建築物(スペイン) ⅰ・ⅱ・ⅳ

スペイン、オビエドおよびレナにある 9 世紀の 3 つの教会は 1985 年「アストウリアス王国の 教会 」として世界遺産に登録された。 1998 年3つの建造物が追加され「オドエビとアストウリアス王国の建築物」と改名され拡張登録された。

⑥トランスヴァニア地方の要塞教会群のある集落(ルーマニア)ⅴ

トランスシルバニア地方の要塞教会ビエルダン要塞教会が最初に世界遺産に登録され、その後 7つの要塞教会へと拡張登録され現在「トランンスシルバニア地方の要塞教会群のある集落」となっている。

⑦グアラニーのイエズス会伝導所群(ブラジルとアルゼンチン)ⅳ

1983年、ブラジルの「サン・ミゲル・ダス・ミソンイス遺跡群」が単独で登録された。翌年アルゼンチンの関連4施設が「グアラニーのイエズス会伝導施設群」 として新たに登録されるとともに、前年登録されていたブラジルの遺跡もここに含まれることになった。

ただし、現在ユネスコの世界遺産センターの扱いでは、事実上「サン・ミゲル・ダス・ミソンイス遺跡」を拡大したものとして扱われている。

以上のように「まとまりのある一定地域」において歴史的に価値ある遺産が追加登録されたり、再編成されている事例により「姫路城を中心とした日本の近世城郭群」という主題と資産構成は合理性をもっていると考えられる。

エ 登録基準「ⅱ」の追加の可能性について

「姫路城を中心とした日本の近世城郭群」という主題の登録基準を考えた場合、ⅱの「ある期間を通じて、または、ある文化圏において建築、技術、記念碑的芸術、町並み計画、景観デザインの発展に関し、人類の価値の重要な交流を示すもの。」も該当すると考えられる。

しかし、姫路城・彦根城・松本城等がそれぞれに建築様式が異なり、それを支える建築技術も多様である。織豊政権から関ヶ原の戦を経て徳川政権が強固になるに連れて城郭の性格が戦略的拠点から領国支配の中核としての天守に変化し、それにともない天守のデザインが堅固な下見板張りの黒を基調とした意匠から姫路城に代表される「優雅で外観のみごとな白亜の天守」が多数建築されるようになる。このように、政治の変革が天守のデザイン等に反映してくる歴史的事実を踏まえ「ⅱ」の基準が追加されると考える。

姫路城も彦根城も松本城も世界遺産登録基準の「ⅰ」と「ⅳ」で申請しているが、「姫路城を中心とした日本の近世城郭群」としてまず国宝四城の合意形成ができた場合は登録基準「ⅱ」が追加され、ⅰ・ⅱ・ⅳの3基準を満たす遺産群となる可能性がある。

別添図 明治期における松本の大火被害








別表 近世城郭の発達史







参考文献

「織豊系城郭の形成」   千田嘉博  東京大学出版会

「岩波講座 日本通史 近世1

・十六世紀後半の日本   朝尾直弘

・都市の計画と建設    玉井哲雄

「建築の歴史」 玉井恵介・玉井哲雄  中央公論新社

「戦国の城」  小和田哲雄      学習研究社

「江戸時代の設計者 異能の武将藤堂高虎」  藤田達生   講談社

「城造りのすべて」 三浦正幸     学習研究社

「天守のすべて①」 よみがえる日本の城 25   学習研究社

「日本の城の基礎知識」 井上宗和   雄山閣

「復元体系 日本の城9 城郭の歴史と構成」  ぎょうせい

「復元体系 日本の城3 北信越」  ぎょうせい

「復元体系 日本の城5 近畿 」  ぎょうせい

「復元体系 日本の城6 中国 」  ぎょうせい

「国宝松本城」           松本市教育委員会

「国宝松本城 解体・調査編」    松本市教育委員会

「松本市史下」昭和8年刊       松本市

「東筑摩郡・塩尻市・松本市誌 歴史下」  東筑摩郡・塩尻市・松本市誌刊行会

「東筑摩郡・塩尻市・松本市誌 現代上」  東筑摩郡・塩尻市・松本市誌刊行会

「松本市史 近世」         松本市

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