世界遺産暫定一覧表 記載資産候補再提案書

1.提案のコンセプト

① 資産名称・概要

○資産名称   松本城
○概 要

ア 松本城を中核として展開した城下町と歴史の道
松本は石川氏の松本城築造とともに城下町として発展した。日本海側の塩や海産物は千国街道と犀川通船により松本にもたらされ、富山湾の鰤は野麦街道から中央高地の松本に移送された。江戸街道と呼ばれる保福寺峠越えの道は中山道に合流し、江戸への藩主参勤交代の道であり、松本藩の米の輸送路でもあった。中山道洗馬宿を起点とする北国脇往還(善光寺道)は信仰の道で、松本はその宿場の機能を有していた。また、木曽や太平洋側の地域に松本の物産を輸送する中馬の道でもあった。このように陸上交通による商業活動で中部内陸地域における商都を形成するとともに、寺院を町の外郭に配し、前方遮断の道路等の武備を施した軍事都市であった。

イ 松本城

(ア) 武田信玄によって整えられた松本城の縄張り
1550年(天文19)甲斐の武田信玄は信濃の府中松本に侵攻し守護小笠原氏を敗走させ、これを手中にした。以後32年間深志城を整備し信濃経営の兵站基地(へいたんきち)とした。近世松本城の本丸・二の丸・三の丸の縄張りは、ほぼこの時出来上がっている。1582年(天正10)武田氏が滅び旧地を回復したのは小笠原氏で、深志城を松本城と改めた。

(イ) 豊臣方の石川数正により鉄砲戦に備えて築かれた松本城天守
豊臣秀吉は石川数正を松本に入封させ江戸の家康を監視する五重六階の松本城天守を1593年(文禄2)から1594年(文禄3)にかけて築造させた。この時建てられたのは天守(てんしゅ)・渡櫓(わたりやぐら)・乾小天守(いぬいこてんしゅ)の3棟である。石川数正とその子康長はこのほかに総堀を整え、土塁を築き土塀を建て、諸櫓や門楼を造り、城内の館の修造および武家屋敷の建設を行い近世城郭として松本城を整備した。また、鉄砲戦を想定し堀幅を広げ、天守の壁を厚くし、銃眼を穿(うが)ち、土塁上の土塀にも2000余の狭間(さま)を作り武備を固めた。

(ウ) 軟弱地盤に工夫を凝らして築造された典型的な平城
松本城天守は女鳥羽川(めとばがわ)と薄川(すすきがわ)の複合扇状地の先端の軟弱地盤に平城として築造された。石垣を低くし、天守の重量を均等に地面に伝えるため天守台内部に16本の栂(つが)の支持柱を埋め込んだ。さらに石垣を積むために堀底に松の丸太を筏のように敷き詰め沈下を防止する筏地形(いかだじぎょう)の工法が採用された。戦国末期、鉄砲戦を想定し「戦うための城構え」をもった漆黒(しっこく)の松本城天守は、関ヶ原の戦い以後実質上徳川氏の勢力が拡大し、泰平の世になってから権威の象徴として建てらた白亜の天守とは異なった性格をもつ我が国に現存する唯一の五重六階の天守である。

(エ) 泰平の世になって付設された辰巳附櫓(たつみつけやぐら)と月見櫓(つきみやぐら)
数正・康長父子により天守が築造されてから40年後、1634年(寛永11)頃、三代将軍家光の従兄弟松平直政が入封し辰巳附櫓と月見櫓を付設した。この二棟には際立った武備は見当たらない。総檜造りで三方取り外し可能な舞良戸(まいらど)や朱の刎高欄(はねこうらん)を巡らし、天井は船底天井に仕上げられている。また、壁は白漆喰(しろしっくい)の大壁作りで瀟洒(しょうしゃ)な造りになっており、戦うための天守と好対照をなす泰平の世の城郭である。

このように松本城天守は戦う機能を備えた天守と泰平の世の優雅な櫓が複合した現存する我が国最古の五重六階の城郭建築である。

② 写真

松本城
1

外堀
2

冬の松本城
3

内堀と松本城
4

③ 図面


資産と一体をなす周辺環境の範囲(松本城周辺高度地区)

2.資産に含まれる文化財

① 整理表

No. 名 称 保護の主体 保護の種別 面 積 要 約
1 天守 国宝 267.1㎡ 1593~94年(文禄2~3)石川数正・康長父子が築城。五重六階の天守では我が国最古の城郭建築。屋根は本瓦葺、入母屋造り。外壁は各層とも上部大壁塗り白漆喰仕上げ、腰は黒漆塗り下見板張り。軟弱地盤を考慮して天守台には16本の支持柱を埋め込み加重を均等に地面に伝える工夫をしている。
2 乾小天守 国宝 74.7㎡ 天守北側に位置し、屋根は本瓦葺、入母屋造り。三重四階で丸太柱が多用されている。外壁は上部大壁塗り白漆喰仕上げ、腰は黒漆塗り下見板張りである。
3 渡櫓 国宝 39.6㎡ 二重二階、本瓦葺。乾小天守と天守を連結している。外壁は上部大壁塗り白漆喰仕上げ、腰は黒漆塗り下見板張りである。
4 辰巳附櫓 国宝 28.9㎡ 1634年(寛永11)頃、松平直政により天守に付設された二重二階の入母屋造り、本瓦葺。外壁は上部大壁塗り白漆喰仕上げ、腰は黒漆塗り下見板張りである。
5 月見櫓 国宝 35.5㎡ 辰己附櫓とともに付設された観月楼。一重地下一階付。寄せ棟造り、本瓦葺。外壁は大壁塗り白漆喰仕上げ。三方取り払い可能な舞良戸を配し、天井は船底天井、朱の刎高欄を廻している。
6 黒門枡形 国(予定) 登録有形文化財(予定) 758.94㎡ 本丸防衛の要であり一の門は昭和35年に復興され、二の門と袖塀は平成2年に復元された。
7 太鼓門枡形 国(予定) 登録有形文化財(予定) 771.19㎡ 1594年(文禄3)頃築かれた。二の丸への正門。門台北石垣上に太鼓楼が置かれ、時刻や登城の合図等の発信源として重要な役割を果たした。平成8年から3年をかけて、平成11年に復元された。
8 本丸御殿跡 史跡 18,307.00㎡ 御殿は天守の完成後の建造で、城主の居所と政庁を兼ねた政治の中枢部であった。1727年(享保12年)に焼失後は再建されなかった。現在は瓦で遺構の範囲を示している。
9 二の丸御殿跡 史跡 29,827.18㎡ 本丸御殿焼失後、藩の政庁が二の丸御殿に移され、幕末まで藩政の中枢機関であった。昭和54年から6年間発掘調査され、史跡公園として整備され平面復元された。
10 内堀 史 跡 26,923.58㎡ 松本城の堀はすべて湧水で満たされた水堀で、本丸に近い方から内堀、外堀、総堀の三重になっており、内堀の広い所は60mの幅があり、当時の火縄銃の有効射程距離を考えて造られた。堀は片薬研堀という方法で掘られ天守の方は浅く、外側は深くなっていて、深い所は3m以上あった。総堀の両側には防衛上の先のとがった杭列(全国で2例目)が発見された。
11 外堀 史跡
12 総堀の一部 史跡 7,965.83㎡
13 西総堀土塁跡 史跡 679.48㎡ 松本城築城時の残存土塁で、武家屋敷跡や土塁堀裾部に敵の侵入を防ぐ防護用の杭列が(全国2例目)発見された。 (平成19年2月史跡予定)

② 構成要素ごとの位置図




c_04

参考「享保十三年(1782)秋改松本城下絵図」による城郭と城下町の復元図

構成要素ごとの写真(番号は整理表に一致)

9
1 天守

2
2 乾小天守

10
3 渡   櫓

8
4 辰巳附櫓

3
5 月 見 櫓

4
6 黒門枡形

7
7 太鼓門枡形

13
8 本丸御殿跡

12
9 二の丸御殿跡

11
10 内   堀

1
11 外   堀

6
12 総堀の一部

5
13 西総堀土塁跡

3.保存管理計画

① 個別構成要素に係る保存管理計画の概要
昭和25年より昭和30年まで文部省直轄5ヵ年計画事業により松本城天守の保存修理が完成した。昭和52年には16項目からなる「松本城中央公園整備計画」が策定され、この計画に基づき松本城天守等の整備が行なわれた。平成11年には「文化庁」及び「史跡松本城整備研究会」の指導助言により18項目に厳選した復元整備の最終完成時期を幕末維新期の松本城の姿とする「松本城およびその周辺整備計画」を策定した。
個別構成要素に係わる保存計画の概要は下表のとおりである。

1 国宝 天 守  昭和30年に松本城天守保存修理工事が完了し、国宝天守五棟は松本城管理事務所が保守点検に勤めている。昭和41年文部省直轄「国宝建造物保存修理工事の塗装工事」が行われ、以来文部省の指導により毎年継続して外壁下見板の黒漆による塗装ならびに月見櫓の朱塗(しゅぬり)の刎高欄(はねこうらん)の塗装を継続している。また昭和30年に設置された消火施設及び避雷針等の定期的保守管理を継続している。また、耐震にかかわる検査等を行い建物の安全性にも配慮している。
今後、保存工事以後50年を経て定期点検ならびに随意の検査をおこない保存に
万全を期する。
2 国宝 乾小天守
3 国宝 渡 櫓
4 国宝 辰巳附櫓
5 国宝 月見櫓
6 黒門枡形  昭和35年の復興以来、門台石垣のせり出しが認められ、定期的な観測による監視体制をとっている。門台石垣のせり出しに伴う黒門二階床面のひずみがみられるので長期的な観測結果により、門台の積み直しと黒門自体の修復を行う予定。
7 太鼓門枡形  平成11年復元竣工した。太鼓門下見板の定期的な塗り替え、及び袖塀の控柱の点検補修等により保存につとめる。また、太鼓門二階部分の門台よりせり出して造られている部分の床面沈下の状況を監視し対応する。
8 本丸御殿跡  天守解体復元工事の際の発掘調査により遺構を確認し、平面復元標示を行う予定。
9 二の丸御殿跡  昭和54年~56年の発掘調査により整備し平面復元標示を行う。また、東北隅櫓及び東土塀の復元のため、平成14~17年にかけて発掘調査を行い、今後は調査研究を重ね復元整備を行なう予定。
10 内  堀  明治10年代に松本中学校の敷地として埋め立てられた内堀南側部分の復元を行い、また、外堀と内堀を分けていた足駄塀の復元を行う予定。
11 外  堀  平成9年と18年の発掘調査により文化庁の指導を受け、現在宅地となっている南・西外堀跡を内環状北線道路拡幅改良工事との整合を図りながら復元整備を行う予定。
12 総  堀  平成15~16年東総堀土塁跡の発掘調査を実施し、土坡(どは)の遺構を保護するため石垣改修工事を行う。
13 西総堀土塁跡  平成18年残存土塁保護のため史跡追加指定申請。一帯を史跡公園として整備する予定。

② 資産全体の包括的な保存管理計画の概要

昭和30年文部省直轄5ヵ年計画事業により松本城天守は保存修理が完成し、その後、昭和35年には黒門の復興、太鼓門台の復元等の整備が進み、昭和52年「松本城中央公園整備計画」が策定された。この計画に基づいて昭和54年から60年に二の丸御殿跡の発掘調査と史跡公園整備がなされ、平成2年には黒門枡形の復元、同11年には太鼓門の復元がなされた。同年「文化庁」並びに「史跡松本城整備研究会」の指導助言のもとに「松本城およびその周辺整備計画を」策定してそれに基づいて保存管理につとめている。

ア 整備の意義

(ア)  松本城は日本を代表する貴重な文化財であり、人々の暮らしと文化を培ってきた。
今後も松本市の象徴として、広く後世に引き継ぐ使命をもっている。
(イ)  松本市は文化・自然と人々の営みが有機的に調和した、日本でも有数な住みよい都市として成熟しつつあるが、中でも松本城は、市民のかけがえのない財産であり、松本市の発展を担う重要な役割をもっていることから、積極的に歴史的な景観保護と整備に取り組む必要がある。

イ 整備の目標

(ア)  整備にあたっては「松本市都市景観条例」をはじめ、関係諸規定を尊重し、市民の協力及び意識改革により、松本城と調和のとれた整備を進める。
(イ)  松本城周辺の整備にあたっては、史実に基づいた復元整備を行う。
(ウ)  旧城下町の特色である武家屋敷、町屋、小路等についても所有者及び地域住民の理解と協力を得ながら、可能な限り保存整備をする。
(エ)  松本城とその周辺の景観を維持するため、市民の合意のもとに、歴史的景観を積極的に保護する。

ウ 整備の方法

整備の方法は、諸条件に応じて次のとおりとする。

(ア)  復元による整備
(イ)  平面標示による整備
(ウ)  説明板による表示
(エ)  その他(CG等)

エ 復元の基準

(ア)  建造物・構築物の復元にあたっては、次の基準を満たすものについて整備を行う。
a  発掘調査により遺構が確認できること。
b  指図(設計図)または指図相当の資料があること。
c  写真資料があること。
(イ)  堀跡について発掘により位置、規模、構造が確認できた場合は、関係住民の理解と協力を得ながら整備を行う。

オ 復元の歴史的時期

(ア) 幕末維新期の松本城の姿に可能な限り復元することを目的とする。
(イ) 景観・管理上やむを得ない場合は、歴史的環境整備について弾力的に考える。

③ 資産と一体をなす周辺環境の範囲、それに係る保全措置の概要

平成11年策定の「松本城およびその周辺整備計画」では以下のように考えている。

ア 三の丸地域の整備

(ア)  三の丸地域は上級家臣団の居住地域であるので、その面影が感じられる整備を行うため
住民の理解と協力を得ながら整備・保存に努める。
(イ)  道筋や屋敷割り、役所跡などは、保存あるいは位置表示をする。
(ウ)  都市再開発、道筋の敷設または拡幅などの際、可能な限り史跡の保存に努める。

イ 城下町の景観整備と町並み保存

(ア)  建築物の高さ規制
松本城本丸及び二の丸(外堀)内から北アルプス及び東山の優れた景観保護、松本城天守閣の存在感保持、また松本城周辺の住環境の保全を図るため、都市計画法に基づき高度地区を指定し、以下の4エリアにより景観を保持する。
◆ 松本城A(高さ15mエリア 17.2ha)松本城址風致地区(ふうちちく)(松本城二の丸)隣接または含まれ るエリア
◆ 松本城B(高さ16mエリア 6.3ha)松本城址風致地区に接したエリア
◆ 松本城C(高さ18mエリア 2.4ha)松本城址風致地区に接し松本城Bの外側のエリア
◆ 松本城D(高さ20mエリア 6.7ha)上記3エリア以外で東総堀東側のエリア

(イ)   説明板の設置
大手門枡形など諸門跡・親町・枝町など
(ウ)
街路・小路の整備
善光寺街道・御徒士町・鍵の手・食い違いなど

(エ)  武家屋敷の復元
(オ)  歴史的建造物の保存
町屋・武家屋敷など代表的な建造物
(カ)  歴史的水路・井戸の整備
蛇(へび)川・はんのき川・紙漉(かみす)き川・辻井戸など
(キ)  史跡指定地の拡大
(ク)  十王堂の整備 4カ所
博労町、伊勢町、餌差町、安原町
(ケ)  残存土塁の整備・保存
土井尻残存土塁、松本市役所東庁舎南側残存土塁

ウ 石垣の整備保存計画
史跡松本城の石垣は石垣積み技法の最も発展していく文禄、慶長、寛永の各時期の貴重な石垣が遺構と共に残っている。平成14~15年度に史跡松本城石垣現状調査を文化庁の指導により本丸、周辺部においてに現地調査を実施し、石垣カルテ(修正箇所、破損状況、補修内容、危険度)を作成し整備保存を図っている。

4.世界遺産への登録基準の該当性

① 資産の適応種別及び世界文化遺産の登録基準の番号    番号 ⅰ・ⅳ番

② 真実性の証明

・昭和5年11月19日 本丸・内堀・二の丸(二の丸堀跡地を除く)の一部が「史蹟名勝天然紀念物保存法」により国の史蹟に指定された。同年松本城天守の実測が行なわれ平面図及び立面図が作成された。
・昭和11年4月20日 松本城天守外4棟が「国宝保存法」により国宝に指定された。
・昭和25~30年 戦後初の文部省直轄5ヵ年計画事業により天守閣の「国宝保存工事」が行われた。同年松本城天守の実測が行なわれ平面図及び立面図が作成された。
・昭和27年3月29日 松本城天守外4棟が「文化財保護法」により国宝に指定された。
・昭和41年 文部省直轄の「国宝建造物保存修理工事」の漆塗工事が行なわれ、以後松本市は継続的に毎年天守の漆塗工事を行なっている。
・昭和45年1月17日 総堀の一部が「文化財保護法」により国の史跡に追加指定された。
・平成19年2月 土井尻残存総堀土塁が国の史跡に追加指定される予定である。

○完全性 16世紀西洋から伝来した火縄銃の普及に伴い日本の城郭建築は、堀幅・壁の厚さ・狭間の設置等劇的に変化した。松本城はその典型として戦国末期に造られた現存する日本唯一の「鉄砲戦を想定した、戦うための漆黒の木造天守」である。昭和25年から30年にかけて行われた国直轄の修理保存工事により、創建時の天守に修理復元され、昭和41年以来毎年、城壁の下見板の黒漆塗装工事が史実に基づき継続される等創建時の姿を維持している。平城として湿地帯に築城された天守は、軟弱地盤対策が堀底・石垣建設・天守台の強化等に施され、戦国末期の城郭建築技術の粋を結集したものである。松本城築造とともに整備された城下町は、中部高地にあっていくつかの歴史の道により日本海側と太平洋側の諸地域に開かれ商業活動を展開した。松本に収斂(しゅうれん)する歴史的街道の道筋及び城下町を構成する旧道筋や水路等は現在も残されている。

③ 類似遺産との比較

ア 戦国末期に、鉄砲戦に備え、戦うための城郭として現存する我が国唯一の漆黒の天守である。
松本城を除く国宝3城の天守は1600年、関ヶ原の戦い以後徳川政権下で権威を誇示する目的で築造された白亜の天守である。それに対して、松本城天守(てんしゅ)・渡櫓(わたりやぐら)・乾小天守(いぬいこてんしゅ)は秀吉が家康を監視するために造らせた戦うための秀吉好みの漆黒の天守である。

イ 松本城は国宝4城の内唯一の平城である。
松本城天守は国宝4城の中では唯一の典型的な平城である。複合扇状地の先端に築かれた天守は軟弱地盤ゆえに天守台内部に16本の支持柱を埋め込み天守台を強化し、堀底に筏(いかだ)地形(じぎょう)を施こして石垣を積み上げる等、他の天守には類をみない工夫がなされている。

ウ 戦国末期の戦うための天守と泰平の世になって付設された櫓が複合連結されている城郭は国宝4城のうち松本城天守だけである。
豊臣時代の戦う天守と、徳川時代の瀟洒(しょうしゃ)な櫓が複合し、建築様式の違いが明確にわかり時代の変遷を感じることの出来る城郭は他に類を見ない。

エ 松本城総堀の両側より防御用の杭列が発見された極めて貴重な歴史遺構である。
昭和45年追加指定された松本城総堀の両側から防御用の杭列が発見された。この遺構の発見は米沢城の事例に次ぐもので、「大坂冬之陣図屏風」に描かれ大坂城の堀の防御用の杭と同じ役割を果たしていたものと推定されている。極めて貴重な歴史遺構である。

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